February 22, 2004

亀井勝一郎 『愛の無常について』(講談社文庫、1971)

 楽しく苦しかったー。久々の人生本のスマッシュヒット。考えに考え抜き、生き様でそのまま著者が体現した地平から言葉が発せられているため、どの言葉も重くこころを震わす。そう、これは今は亡き読書家の祖父が、唯一自分に「読め」と託した本だった。以下、印象的部分の保存メモ。

★精神について

 「与えられた政治、その時々の風潮、それに盲目的に従っていくだけの人、党派の中に在って、自己固有の判断力を失ってしまっている人、すべてこれは人形です。(中略)個々人の自由意志に立つことを原則とする文化すら、ジャーナリズムの膨大な機構によって、己の意思に反して人間をこの状態に強制している。(中略)自分は果たして一個の人間であるか。――この問いを、さまざまな角度から発してごらんなさい。」(pp13-14.).

 「『生まれ変わる』ということを、私は人間の根本条件としております。(中略)この世に順応していくかぎり、誰しも体験は持つが、それはきわめて狭い範囲の、受動的な蓄積物にすぎず、そのかぎりでは動物的なものにすぎませぬ。この体験に思索を加え、その意味をさぐり、形成し、変様することによって、はじめて人間的体験というものが成立するのです。この力がなければ、大人とは単に傲慢な子供にすぎますまい。(p.15)

 いかにして生まれ変わるか。「考える」=「愛する」=「疑問によって自己を妊娠せしめられ、かくて自己を生む」=「生まれるためには破壊しなければ」=「懐疑」=「疑問の永遠性、永続性に耐えること」(16p)

 「人間という、あわれにも短い生命が、永遠という無限時間に突き当たるのは、たしかに『考えること』においてです。(中略)そしてこの限界超克の姿が、実は人間であることの最大特徴だとも言えますまいか。動物は、決して己を超えようとはしませぬ。」(17p)

 「動物は決して絶望しませぬ。人間に成りかかっている人間だけが絶望するわけです。つまり、自己に絶望し、自己を否定しながら、第二の自己を形成していく。絶望とは、「生まれ変わる」ための陣痛に他なりません。」(18p)=絶望したことのない人間は落第

 「悪徳」=「早く解決を得たと思い込んで、そこに安心し、自己を限定するか、或いは限定してもらう態度」=(そのとき)「人は独善におちいる」=「ある種の宗派性、党派根性、官僚制、公式主義といったものは、すべて人間のこの弱さに結びついているもので、弱い精神、考えることの中絶、その空白に向かって他者からの限定が到来しやすい。そして人間は、この限定において一種の強さを示すものなのです。」(19p)←全体主義は青春の性急さに訴えかける、必ずスポーツを奨励

 「人間は努めているかぎり迷うに決まったものだ(ゲーテ、ファウスト)」=最高の師、最良の書とは、迷いを解いてくれるものではなく、一層深い迷いの中に追放するような性質のもの=「私の身に即して、彼らもまた迷い込む」(21p)

 人間の生命とは「一念」=「自己自身への祈り」=「そして自己への祈りが、自己によって裏切られるという事実も付け加えておきたく、その次に来る祈りもあるということを」

 邂逅について。わが身に触れてくる小さい狭い範囲の社会を直視せよ=読書も邂逅=一生の中で体験する社会は全体のわずか=まずはこの中で最上の結合を求めよ=これが社会性の基礎

 「故人の跡を求めず、故人の求めたるところを求めよ」

 「沈黙とは、正確さへの意思」=「意志の強さの尺度」=「多くの沈黙に耐えた人の言葉ほど美しい」=沈黙を重視し、それに耐えよ=言葉が生まれる=自分が生まれる

 「明日とは、今日の空無の上に立った一片の空想である」「死の自覚が、人間の本音を、まず自己に明白ならしむる」「生とは、死との妥協」(33p)

 「歴史とは、人生の膨大な量」「過去とは別離であり、愛情の消滅のことであります。どんなに歴史上の知識を持っていても、私の謂う邂逅なく、生命のふれあいがなかったならば、それは『過去』なのです。反対に生身の師のごとく、友のごとく、史上の人物に付き合うならば、それはつねに『現存』なのです。」ex.キリスト(36)

 「我に我あるなし。我が信ずる者、我が生命となりて、我を生かしむ。」「邂逅はあくまで一対一でなければならぬ。そしてたった今生まれたという始原の思いがそこになければなりませぬ」(38)

 「有名になることは、単純化されて濫用されるということです」「人間は自己自身に対しても十分に俳優的存在であります。」(59)

 孤独とは、「危機と不安を原動力として、抵抗しつつ凝固する自己結晶の作用なのです。」「神が人間を創り給うた。さて、まだこれでは孤独さが足りないと思し召して、もっと孤独を感じさせるために妻を与え給うた。(ヴァレリイ)」「家族は矛盾をはらんだ生命体であり、いつかは分裂しなければならぬ運命を耐えているもの」「自己を持つことは、『心の出家』をはじめること」(63)

 「党派は、或る個人の固有のテーマを追求するものではなく、様々な個人の平均化された願望を平均的に追及するものであります。政治は常にこの平均性の上に立脚し、平均しつつ高めることをその理想とするもので、この意味で複数的なのですが、自発的に自己固有のテーマを考えるという精神の単一性からいうと、あきらかに苦痛に違いありませぬ。」「故に党派の最も恐れているものは、必ずしも外部の政敵ではなく、(中略)自己内部の孤独」であって、「最大の裏切り者は、常に内部から出るのです」(66)

 「断言によって、人間は強烈な孤独を自覚するのではないでしょうか。(中略)断言とは、一の自己犠牲であります。(中略)孤独を恐れる者は、いつも弁解の言葉を用意していなければならない」「精神とは地に堕ちて死ぬ一粒の麦なのです。それはつねに一粒であらねばならぬ。(中略)それはあくまで現実社会の中でのみ、発芽を促されなければなりませぬ」それが時に爆発的革命をもたらす(ex.キリスト)「精神をもつことにおいて、人間はみな何らかの意味で受難者なのです。」「(臨終において人間は)自己の全生涯に対して孤独となる(中略)故に、生そのものをこれらに慣らすように仕向け、死に向かって成熟して行くべき」(72)

★愛の無常について

 「人間であるかぎり愛とは巨大な矛盾であります。それなくては生きられず、しかもそれによって傷つく。」「人間的愛にとって、最大の敵とは、時間そのものかもしれませぬ。」「愛するということは、全自己をあげて永遠に愛しようとすることでなけばならぬ。愛の可能性とは、愛の永遠性の可能性のことです。永遠に愛することを欲しない愛、いわば時間的に限定を設けた愛など存在するでしょうか。(中略)みな永遠です。愛とはその誓いなのですから。」「その永遠性を、今に完成したいという欲求」「永遠性を今に完成させるためには、死を選ぶ以外にない。死は人間的時間の終焉です。死が愛の完成の証明となるのであります。(中略)失恋者の自殺は、恋を失った絶望によって、自己の恋の絶対性を確信したものの自己証明です。」
 
 「愛の永遠性を断言した美しき瞬間、これが愛の実際的な定義のように思われます。愛の可能性=永遠性の今(中略)「したがって、すべて愛するものは、その心中のどこかに、幾分かずつは、死の誘惑を持っているはずだと思います。いや、愛とは美しき瞬間における死であるといってよい。芸術は、この瞬間を永遠化しようとする、人間であることの悲しき願いに発したもの」(78)

 「汝隣人を愛せよ、と聖書は教えています。自己に最も近い隣人とは、家族であり親族ですが、我々は、自己の身に近いものほど愛し得ないという事実に直面します。(中略)つまり自分の身に触れてこない対象、ないしは時々しか会わない対象、その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。」(82)

 「純粋な敵とは個人的存在なのです。愛の関係が一対一であるように、憎悪の関係も一対一で、集団化するにつれて敵対意識は希薄になるでありましょう。戦争における外的とは架空の存在に過ぎませぬ。」近代の戦争の場合、「敵愾心とはイデオロギーであり、宣伝によって人工された情熱であり、(中略)いや、敵とは(飛んでくるミサイルなど)機械そのものかもしれないのです。」こうして「一片の憎悪、一片の敵対意識なくして、無数の人間を殺すことができるわけです。」そして直接的な敵意の対象となるため、「政治家がもっとも恐れているのは内敵なのです。」(87)

 「独自性のないところに、敵は存在しませぬ。」

 「恋愛とは美しき誤解であり、誤解であって差支へありませぬ。そして結婚生活とは恋愛が美しき誤解であったことへの惨憺たる理解であります。」「理解は犠牲を要求します。」「絶えず理解を疑うことが、理解に近似する唯一の道です。人間はいったい、何を知りうるのでしょうか。」(97)

 「人間の空虚なことを充分に知ろうとするには、恋愛の原因と結果とを考察すれば足りる。その原因は、『何ともいえない」ことである。が、その結果は恐るべきものである。この『何ともいえないこと』、人の知ることもできないような些々たることが、全地、王公、軍隊、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、それがもし少し低かったら、地の全面は変わっていただろう」(パスカル、瞑想録162)

 「恋する人間をごらんなさい。彼らはみな天才的に振舞っているではないか」(トルストイ)恋愛は「芸術と同じように、破滅と復讐の上に成立する快楽なのです。だから美しい。」「愛し合う二人の恋は、ほとんど決して同じではない」(スタンダール)「恋愛とは、本質的には片思いなのです。」「『想像されたものはすべて実在する』という恋の狂気(錯覚)」(107p) 

 「おそらく一番賢明なのは、自分を打ち明け相手とすることである。恋人と交わした会話、諸君を悩ます困難等の特徴ある詳細を、名前を変えて今夜すぐ書いておき給え。もし諸君が情熱恋愛を抱いていれば、一週間経てば諸君は既に別の人間になっているはずだから。その時この診断書をよめば、諸君はいい忠告を聞けるだろう」(スタンダール恋愛論第34章) 「自己の感情の『何故』を知ることができないものは、音楽の狂信者となるのです。(中略)外部の音楽が彼の運命を扇動し、恋愛におけるごとく結晶作用が起こる。しかし絶対の孤独においてです。」(116p)

 「快楽と幸福の追求に際して、我々はひどく大胆に空想的になるか、反対に小さく臆病になるか、どちらかの場合が多い」「どのような快楽、いかなる種類の幸福であっても、もしそれがその名に値するものならば、必ず努力と苦痛は避けられぬ、気晴らしといえども例外ではない。これが鉄則です。(これを端的に示すのが恋愛)」(118p) (Gen注)それゆえに、老後の楽しみとか生きがいを作っとくには、<努力を重ねた快楽を追求する>ってことが大事なのだろう。それは真に生きがいとなるから。そしてそれが「趣味」と呼ばれるものなんだろう。仕事以外にも引き出し作っとかなきゃな。

 「快楽と無常は双生児なのです。」「もし死を忘れ、人間であることを忘れさせるほどの幸福と快楽があったならば――。(中略)神をも求むる心もそこから起こりました。しかし、死を忘れ、人間であることを忘れる方法とは、死の忘却でも人間無視でもなく、逆に死の凝視であり、人間を研究することで、あげくの果てはいよいよ明晰に死を、人間を考えさせる結果となった。」「死が、快楽にとって無上の薬味であるならば、快楽は、死にとって死に慣れさせる適切な練習とはいえますまいか。(中略)死は快楽への執着を倍加させ、同時に快楽はその復讐をも倍加させるという風で、まことに困ったことに、この二つは永久に仲良く収まることができませぬ。快楽を歌った詩人も、死を歌った詩人も、換言すれば同じように復讐を歌っているのかもしれませぬ。」(121p)

 「人間はつねに、恐怖の深淵に挑んで生きているものなのです。快楽派(エピキュリアン)とは、この自覚に生きるが故にこそ快楽派であり、宗教家もまたこの点では同一ですが、前者は深淵のほとりに饗宴を開き、後者はそのほとりに祈祷を捧ぐるものであります。」(122p)

★罪の意識について

 「人類史とは、女を裸にしたり、着物をきせたり、いわば快楽と厳粛の二重奏をくりかえしてきたようにも思われるのです。」「すべての恋人のなかには、多少なりとも、マリアとヴィーナスが共存していて、愛のうちにそれぞれのすがたを呈するのでありますまいか。」「ルネッサンスの画家たちが、裸体を描いて、決して卑猥にならず、無上の美を現出した根本には、ヴィーナスに捧げられたひそかなマリア的祈祷があったのではないでしょうか。つまり裸体は大胆であるだけ羞恥を知り、節度を知っていた。裸体はその祈りを持っていたといってもいいでしょう。」「情欲の奔放さ、その罪悪性の確認、これを自覚し、しかもつねにその復讐に遭い、更にまたこれを克服しようとする、こうした激烈な対立闘争の連続のうちに、真の裸体美は生まれるものなのであります。」(162p)

 「芸術とは偉大な誘惑術のことであります。それは政治目的にも、宗教道徳的目的にも仕えるものではありませぬ。無条件に美しいということが一切なのです。(中略)美の創造者とは、かかる沈黙の誘惑者と言ってもよい。(中略)一の盲目を創造するものなのであります。」「欲情をそそることはむろんですが、それは創造された美であるが故に永続的であり、人間を悩殺せずにはおきませぬ。誘惑の極地とは悩殺のことです。文学でも美術でも舞踊でも、最後はここに達するべきはずのもの」「ギリシャ神話によると、ヴィーナスは海水の泡から生まれたということになっていますが、美とは海水の泡のごときものかもしれませぬ。大生命につながる戦慄と恍惚の所産なのです。快楽というなら、これほど快楽的なものはなく、無常というなら、これほど無常なものもありますまい。そして大海の深淵へ我々を誘惑し、沈めます。」(166p)

 「美を創造するものは、本質的に言って反宗教的な神であります。」「キリスト教的に考察すれば、(美学ではどう言おうと)詩人的実存はいずれも罪である。罪とは、存在する代わりに創作し、ただ空想のなかでのみ善と信とを問題にし、実存的にそれであろうと努力しないことである。」(キルケゴール、死に至る病)170p

★永遠の凝視

 「大慈大悲とは何か。それは世の所謂あわれみでもない、同情でもなく、赦す赦さぬの問題でもない。人間的愛の不連続性に対する、それは仏性の連続性であり、一人間を永遠に凝視していてくれる明晰の眼なのである。人間社会に在って、誰が永続的に瞬時も休まず自己を見つめていてくれるか。(中略)愛とは永遠凝視力なのです。しかし人間にあっては、親子恋人ですら、やがては途切れる。私はこの寂寥のうちに仏性の凝視力を仰ぐのです。」

 「何を凝視するか。言うまでもなく人間の状態を、その矛盾を、その懐疑を、その抵抗を。(中略)どう弁明し、どうもがいても、人間である限り、永遠の凝視の前には『無』です。仏教にはキリスト教のごとき『怒り』がないと言われますが、私にはこの凝視のほうがより恐ろしいのです。」「自己計量による救いの有無ではなく、赦しの有無でもない、何処から来て何処へ行くかを知らぬ人間に対する無条件の無限凝視、言うならば、生の大肯定がここにこそ成立することを私は念ずるのであります。」

投稿者 gen : February 22, 2004 04:05 AM | トラックバック
コメント
コメントする









名前、アドレスを登録しますか?