コメント: 人質3人の評価をめぐる議論の終焉

2004.12.20 Mon

先週の金曜日に、TBS ラジオの「アクセス」でイラク人質事件に関する議論をやっていた。途中までしか見ていないのだが、ほぼ全体的に、「被害者に『救出費用払えよ』式にバッシングをしたのは間違っていた。」という意見だったようだ。自分自身もその立場なので、それはそれでいいのだが、「間違っていなかった」という意見ももう少しあると良かったのだが、と思う。場合にもよろうが、色んな意見があるのは良いことだ。

以前、あるウェブサイトの署名活動を見た。イラク人質事件の被害者に対するバッシングに抗議する署名活動だった。知り合いが署名していることもあり、自分も署名してみることにした。そのときに書いたメッセージがあるのだが、長すぎる上に、copy and paste するには技術的な都合から具合が悪いので、要約・改変の上で書き直してみることにした。(かなり大幅に改変したので内容が異なっているかもしれない。)

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イラク人質事件に思うことがあり、筆を取った。

中でも気になったのが、「政府の退避勧告を無視してイラクに留まった被害者が悪い。」「自己満足でイラクに行ったのだから助けてやることはない。」という論理的に粗悪で、かつ不謹慎な言説が政府や与党の一部の連中、および「ネット右翼」から流れていたことだ。

「器が小さい」というのが私の第一印象だった。この不当なバッシングの有り様を見ていると、この間 TBS で放映されていた「砂の器(原作:松本清張、主演:中居正広)」の「本浦家に対する村八分」のシーンを思い出す。私の感情はこれまでにしておこう。感情というものは論理ほどの普遍性を持ち得ないと思うから。

まず、被害者らがイラクに行ったのは「自己満足」というが、そうだろうか? 海外ボランティアや戦争取材はたとえ戦時下であっても必要だ。もしやってはならないのならば、イラクにいるのは自衛隊だけになる。迷彩服を着た人間に何のボランティアが出来るのか? イラク人は日本の自衛隊がどういうものかなんて承知しない。武装した迷彩服の人間を見たら、直ちに「軍人だ」と思い緊張するだろう。また、自衛隊にちゃんとした戦争取材なんか出来るのか? 自衛隊は防衛庁、つまり政府の一機関だ。自衛隊に戦争取材をさせるなんて、政府の「大本営発表」を認めるようなもんだ。民主主義国家がそんなことで良いのか。

さらに不可解なのは、一部の被害者のようなフリージャーナリストから安い金で情報を買い上げておきながら、この政府や一部の政治家と一緒になって、被害者のバッシングを行った一部の大手メディアだ。大手メディアがイラクの現状を報道出来て、なおかつそれを基にして対イラク戦略を国民が決めることが出来ているのは誰のおかげか?

以上より、被害者の「自己満足」の内に帰した上で、「社会に迷惑をかけたことをどう思うのか?」などと被害者の責任を問うのは不適切だ。少なくとも俺は迷惑なんか被っていない。被害者とは面識は全く無いし、前述のような利益を除けば、俺と被害者らの間には具体的な利害関係は無いのだから。登山や遊泳になぞらえて、「自己責任」説を展開するのはアホだ。

ただ、被害者らの危機管理がやや甘かったというのはあたっているかもしれない。(俺みたいな奴のいう台詞ではないが。)自衛隊や日本大使館と連携を取りながら活動をすることは出来なかったのだろうか? NGO と政府の仲がこんなに悪すぎるのは困ったもんだ。

最後に、「被害者の救出に 20 億円もの血税が投入されたんだぞ、この税金泥棒!」などとぬかしやがった輩がいることも嘆息するべき事実だ。自分が 20 億円支払うわけでもないのに。日本の総人口はおよそ 1.25 億人。有権者数(=国家に責任を負っている日本国民の総数)が仮に 1 億人だったとしよう。そのとき、有権者一人当りの負担金はたった 20 円。この 20 億という額もどっから出てきたのか知らないが、こんな簡単な割り算もろくに出来ない連中が沢山いるという事実が何より困る。昨今の「理数離れ」を象徴する現象といえよう。

今の日本国民にはこういう数理的な思考を含めた思考トレーニングが必要だ。今の実力のままで「わが国の国益が、、、」なんて、世界の笑い者だ。

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少し補足するが、社会学者の宮台真司氏が「右翼思想から見た人質バッシングの国辱ぶり」と題して、この件に関して自身のサイトで触れている。そこで宮台氏が日本国民に全体的に欠けているものとして指摘するのは、「民度」である。読んだのが数ヵ月前なので、おぼろげにしか覚えていないが、「今度の騒動で異質なものをカットアウトする田吾作並みの民度の低さが世界に露呈されてしまった。これは国辱的醜態だ。」みたいなことが書いてあったような気がする。

「異質なものを『ムラ』の外へ排除する」狭量な精神−−−これこそ俺に「砂の器」のシーンを思い出させた正体だったのだ。「異質なものは『ムラ』の外へ」から「異質なものも我が『ムラ』に」へ。この精神的な移行が成されなければ、日本のローカルな共同体に未来は無い。日本のローカルな共同体が脆弱ならば、「小さな政府」はあり得ない、というのが真なる「保守派」の発想。ところが、この間の騒動で「異質なものも我が『ムラ』に」の精神が貫けた「保守派」はほとんどいなかったように見受けられる。

ならば、日本国民は NGO や NPO に関する理解を深めるべきである。もっとも、それは俺も含めての話だが。

投稿者 犬笠銀次郎 : February 6, 2005 09:29 AM
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