日本人論について。Genさんが述べるように、WW�兇砲�ける日本の軍国主義が日本人の「集団主義」に起因すると考えるのは浅はかだと私も思う。
戦争等の危機的状況において国を問わず人は集団主義なりやすい、あるいはそうなるよう仕向けられていると思うからである。
しかしながら、「日本人」と他の国が違うこともまた事実であると思う。とりわけ、西欧=個人主義、日本=集団主義 とする場合について考えてみたい。
個人的見解として、この図式が成立するのはことの判断基準を「人の流動性」においたときであると考える。様々な言葉や文化が交わる場においてはそれぞれが意見をのべる必要性が高い。そして、意見をのべるという行為が「討議」の重要性を生む。その積み重ねによって「人の流動性」が低い国にくらべて「個」という概念が重要視されたのではなかろうかと思う。
ゆえに、「人の流動性」に焦点を当てて、西欧と日本を比較した場合には、日本は「集団主義的」であるという主張はあり得ると私はおもう。
だから、危機的状況における、ややもすれば、普遍的「集団主義」と「日本人=集団主義」とひとくくりにすることは異なり、それを区別する必要があると私はおもう。
結論として、二者間以上において「集団主義」か「個人主義」であるかを考える場合(戦争時ではないときに)、何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う。故に、アジア諸国と日本の間における「日本らしさ」と西欧諸国と日本の間における「日本人らしさ」には違いが現れるのではなかろうかと推測する。
長くなりましたが、以上が現時点での私の「日本人らしさについて」の考えです。
投稿者 tomato-lover : May 16, 2004 10:27 PM新しいエントリーとしてきちっと書きながら論じてみようと思ったんですが、なかなか時間が取れないのでコメント返しします。レス遅れてしまってごめんなさい。
>個人的見解として、この図式が成立するのはことの判断基準を
>「人の流動性」においたときであると考える。
>様々な言葉や文化が交わる場においてはそれぞれが意見をのべる必要性が高い。
>そして、意見をのべるという行為が「討議」の重要性を生む。
>その積み重ねによって「人の流動性」が低い国にくらべて「個」という概念が
>重要視されたのではなかろうかと思う。
まずアメリカに限っていえば、「人の流動性」が日本と比して高いのかもしれませんね。人種のサラダボウル、理念が結びつける国家などと言われてますから。このように感覚的にはわかるのですが、根拠となるデータはありますか?また、「西欧」という概念を利用しヨーロッパ諸国も含める場合はどうでしょう。イギリスは日本と同じ島国です。ただ、イギリスにはやたらと黒人は多いですね。でも日本だって中国人/韓国・北朝鮮系の人が多い。
またtomato-loverさんの「流動性→個の確立」論に同意したとしても、それに留保をつけたいと感じます。そのような流動性から導かれるものは、「人と議論するときにとりあえず自分の立場を明確に発言する傾向」であって、決して「個人主義的な傾向」などとラベリングはできないと思うのです。それを「人に頼らず自分を押し通す傾向」という一般的な傾向に敷衍化する根拠は無いと感じます。たとえそれが平和な時であれ。
>結論として、二者間以上において「集団主義」か「個人主義」であるかを考える場合
>(戦争時ではないときに)、
>何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う。
>故に、アジア諸国と日本の間における「日本らしさ」と
>西欧諸国と日本の間における「日本人らしさ」には違いが現れるのではなかろうかと推測する。
自分なりの結論は、「集団主義的」「個人主義的」などという概念がそもそも無効なものではないかということです。ある状況においては「アメリカ人の個の強さ>日本人の個の強さ」であり、また別の状況においてはその逆だと思うのです。いわば多様な人がいて多様に振る舞う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇というか。
これはつまり「集団主義」「個人主義」をどう定義するか、という話です。その意味ではtomato-loverさんの「何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う」という意見を汲んでいるのですが、私は、「日本対アジア諸国」「日本対西欧諸国」という対置の図式というよりも、そもそも状況(コンテクスト)の方がより重要ではないかと考えてしまうのです。
投稿者 Gen : May 24, 2004 06:26 PM>まずアメリカに限っていえば、「人の流動性」が日本と>比して高いのかもしれませんね。人種のサラダボウル、>理念が結びつける国家などと言われてますから。このよ>うに感覚的にはわかるのですが、根拠となるデータはあ>りますか?
IMO(international migration for organization)に人口のflowがあって、それを根拠にしたつもりです。でも、もちろんそれが正確なデータかどうか、分からないです。
>また、「西欧」という概念を利用しヨーロッパ諸国も含>める場合はどうでしょう。イギリスは日本と同じ島国で>す。ただ、イギリスにはやたらと黒人は多いですね。で>も日本だって中国人/韓国・北朝鮮系の人が多い。
うーん、そういわれると日本にも多くの在日の人がいるのは事実で、流動性ということに論の根拠をもたなくなります。論の破綻です¥。
>またtomato-loverさんの「流動性→個の確立」論に同意>したとしても、それに留保をつけたいと感じます。その>ような流動性から導かれるものは、「人と議論するとき>にとりあえず自分の立場を明確に発言する傾向」であっ>て、決して「個人主義的な傾向」などとラベリングはで>きないと思うのです。それを「人に頼らず自分を押し通>す傾向」という一般的な傾向に敷衍化する根拠は無いと>感じます。たとえそれが平和な時であれ。
たしかに、Genさんの言うとうり、「自分の立場を明確にする傾向」は「個人主義的傾向」としてラベリングすべきではないと思います。Genさんの指摘ではたと気がつきました。しかし、一方で、「自分の立場を明確にする傾向」オ概念を表すにふさわしい言葉がないように思います。そこから派生して、コレは、私見ですが、日本において、多くの概念規定は、それを表すのに、ふさわしい言葉が無いがために、本来の意味とは異なる意味を敷衍し、それが社会においてマジョリティーになっていっているのではなかろうかという見解にいたりました。
>自分なりの結論は、「集団主義的」「個人主義的」など>という概念がそもそも無効なものではないかということ>です。ある状況においては「アメリカ人の個の強さ>日>本人の個の強さ」であり、また別の状況においてはその>逆だと思うのです。いわば多様な人がいて多様に振る舞>う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇と>いうか。
>これはつまり「集団主義」「個人主義」をどう定義する>か、という話です。その意味ではtomato-loverさんの >「何を基準にするかによってその結果は大きく異なるの>ではなかろうかと思う」という意見を汲んでいるのです>が、私は、「日本対アジア諸国」「日本対西欧諸国」と>いう対置の図式というよりも、そもそも状況(コンテク>スト)の方がより重要ではないかと考えてしまうので >す。
確かに、Genさんのおっしゃるように、「多様な人がいて多様に振る舞う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇」というのは納得です。そして、これは他の多くのことにも当てはまることだと思います。
しかし、当たり前のことなのですが、やはり、ものごとをみようとするときには、ある一定の分類のようなものがないとそれは難しいように思います。えらく抽象的なのですが、なにかその溝をうめてくれるようなものは存在するとおもいますか?