March 27, 2004

朝生を観てその他

★語りそのものの内容ではなく、語り手がいかに語るかというその人間そのものを観察し参考にする場としての「朝まで生テレビ」とかシンポジウムの有効性。「強度」への視点からの観察。

★右翼にしろ左翼にしろ、ひとたび集団がある方向に動き出すと、その集団の方向性はかならず先鋭化する。逆方向へ戻すような意見は、日和見主義として軽んじられ、過激な意見が通りやすい集団力学が働く。この際集団を構成する者の頭がいいとか悪いとかは関係ない。戦時中の軍部の暴走も同様のロジックによって語りうる。何事かをはじめるのは簡単だ。しかし止めるのは、困難を極める。

★資本主義=利益主導。全共闘=利益(自民党政治)<理念主導。全共闘の崩壊→ふたたび利益主導型へ。個人としては理念を持って生きていても、ひとたび政治のことになると無関心・なーなーになるメカニズムはなにか。

★全共闘は本来抵抗運動から始まった。武力を得たりしていつのまにか権力奪取までを目指す運動へと進んでいったが、権力奪取後にどういう社会を実現すべきかのビジョンがなかった。もとは抵抗運動として始まったのだから。だからこそ、全共闘指導部の正当性を担保するものは「党」であったりし、結局は自らがスターリン主義を再演することにもなってしまった。

★革命戦士ははじめから存在するものではない。個人内の革命をまず行うことが重要。だからこそ自己批判・他者批判を徹底。集団メカニズムにより殺人にいたる。でもそこから逃げ出すことは、すなわち自分の正義からの逃走でもあった。だから逃げ出「さ」ない。リンチ殺人。

★自衛隊イラク派遣。国益主導の派遣。じゃあ兵士がイラクで死んだ場合、「国の利益のため」に死んだということだけで納得がいくか?やはりなにか大義が必要ではないか?明確な大義を考え付かない現状としては、イラクにまだ派遣すべきではなかった。(宮崎哲弥)

★オウムの問題は「だらしなさ」にある。麻原が何も語らないことが、オウム信者にとって、まだ凄みを効かしているのかもしれない。おそらく教祖化するのは間違いないだろう。

★民衆のため。人民のため。なにかを「代理して」行動を起こすことの危険性。歴史が証明する数々の出来事。よって、自分と他者のうさんくささのない付き合いのレベルに即して、社会を考える必要があるのではないか(小阪修平)。←でも政治の本質からいって代理性は不可分なのではないか(宮崎哲弥)

★存在を賭けて語る言葉の「説得力」。この意味で遥洋子>香山リカ。知識レベル云々以外の姿勢の問題で。

February 19, 2004

但し書き

 著作権的に、これは個人的メモです。今日から3月末まで二日に一冊読んでやろうじゃないか。