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・邦洋mix。
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キアロスタミ監督に捧げた文章【高校生の時執筆し,10万円分の図書券を獲得した。笑】







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Movie title by vowel order/Directors

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最新の映画レヴューはこちらに書いています。     

 

・ten minutes older〜イデアの森 / ゴダール、ベルトリッチほか(オムニバス)90点

   あらすじはこちら。8人の監督が、それぞれ10分の映画を撮る。いわば時間を問う映画のオムニバス集。「10分」という時間に各監督がこだわっているので、表題となっている。

  過去も未来も存在しない。あるのは「過去の現在」「現在」「未来の現在」だけだ。「過去の現在」は記憶であり、「現在」は注意であり、「未来の現在」は期待である(フォルカー・シュレンドルフ)。圧巻はゴダールだ。映像美がまず素晴らしい。これほど想像力をかき立てる映像を誰が撮ることができるだろう。彼は闇と沈黙にこだわる。結局、時はそこに沈む他はない。沈黙と闇のみが永遠である。しかし、彼は同時にこうも宣言する。「記憶の終焉」という小作品で、ナチスの強制収容所の死体を扱った映像にかぶせて、「時効はない」、と。かつて若く明るかった空が宵に沈み、星たちの間に失われたものが顔をのぞかせる「今夜」、そこは永遠である。しかし「現在」に生きる我々に、せめて残された倫理といえば、「時効はない」ということなのだろう。

('04 11/23)

 

 

・トロピカル・マラディ / アピチャッポン・ウィーラセタクン(タイ)82点

   あらすじはこちら。今年の映画祭Filmexで観てきた一作。カンヌで賛否両論を巻き起こしたという本作品。まず、この監督は圧倒的に闇の感覚に優れている。絵画でいうところのカラヴァッジョのような光彩感覚だ。非常に映像の強度がある。その上で、人間の根源を問うている。ひとつだけ。映画の最後に、森のざわめきの音がが「歌」に聴こえてきた。たしかに木の擦れ合う音は、死と生を問うような音楽だった。それだけでも観た価値のある一作だった。

('04 11/22)

 

 

・魚と寝る女/キム・ギドク(韓国、2000)90点

  あらすじは
こちら。この映画は恋の寓話、愛の神話、ひとつの実験だ。愛というものを彫刻刀で骨が出るまで削ってゆく。日常の恋・愛からいろんなものを1つずつ削ぎ落としていく。主人公の二人はまわりから隔絶され閉鎖された空間に閉じ込められている。家族の干渉、仕事の煩雑、友人の思惑、社会のまなざし――そういったものをまず削ぎ落とす。鈍い光が揺れ動く黒い湖で、はじまり、おわる物語。しかし、「削ぎ落とし」はそれにとどまらない。この映画が愛というものから削ぎ落とした本質は、「言葉」である。愛、そしてその描写がどれほど「言葉」に依存しているか考えてみたことがあるだろうか。愛のささやき、言葉が連想させるふくよかな甘さ。それらを一切削ぎ落としたとき、いったい何が残るのか。愛に関する言葉が一切登場しない、それゆえに非常に渇いた印象を与えるこの映画――『魚と寝る女』。

  言葉を削ぎ落とし残ったのは、肉体である。針を突き刺す痛みと、ペニスを突き刺す甘み。自殺しようと3本の釣り針を飲み込んだ男を、女は膣で癒す。閉塞的で執着的な女の愛から逃れようとする男を、女は膣に3本の釣り針を刺し痛みの叫びで引きとめようとする。根源的な肉体の力としての、愛=性=生。ふだん、愛というものは多くの言葉で飾られている。わたしたちは言葉で愛を彩りながら生きている。たしかに、人間はあらゆるものを言葉によって意味づけながら生きている。言葉が、あらゆるものの色彩を豊かにする。言葉がなければ人間ではない。しかし、いろいろなものを削ぎ落とした骨格、つまり根源的な力は、肉体にしか存在しない。肉体から力・強度が生まれる。根源的には、愛がもつ癒しはセックスという肉体的に突き刺す(突き抜ける)甘み、愛の喪失の痛みは釣り針を膣に突き刺す痛みに他ならない。

  神話のようなこの映画を観て、愛=性=生の持つ、肉体的な強さと暴力性にはっとした。言葉でお茶を濁すふだんの恋愛じゃなく、このように身を切り裂き血を溢れさせる以外に表現のしようがないほどの圧倒的な愛に囚われてみたいという願望が、たしかに自分の中に芽生えた。しかし、この映画の結末が示すように、それはおそらく破滅的なものなんだろう。だからこそ魅力的だ。ただこの映画のラストシーンは、ある意味、救済の物語として描かれていたのかもしれない。いろいろなものを削ぎ落とされた愛の骨格が、息を引き取ったのち、かつてないほど澄んだ静けさに包まれた湖の中に、光を浴びながら漂っていたのだから。

('03 10/29)

 

 

・わすれな歌/ペンエーグ・ラッタナルアーン(タイ、2002)69点

  あらすじは
こちら。恋は突発的に訪れる。その恋が突発的に引き裂かれたとき、男はどう振る舞うのか。この映画は、徴兵や戦争が恋愛を圧倒的に引き裂く様を描く、数あまたある映画のひとつだ。恋愛は甘くもあり、痛くもある。日常の恋愛は、だいたいにおいて甘さが痛さに勝っている。だからこそ、ちまたでは恋愛信仰が激しく普及する。けれど、甘さと痛さは表裏。痛さは甘さの演出家である。「現代は、大恋愛が不可能になった時代だ」といった人がいた。現代は、自由な恋愛の時代。「つきあおっか?」のヒトコトが、空気のような軽さで宙に舞う。メールでだらだらと、軽妙な甘さがつながる。しかし、恋愛を切り裂くなにかを乗り越えてこそ、身も震えるような甘さが訪れるとすれば、少なくともショーであるべき映画には、「痛み」をあらわす装置が必要となる。恋人の事故、恋人の病気、恋人との身分差(ロミオとジュリエット)、恋人の徴兵―――。ところで、逆から考えることもできるだろう。つまり、恋愛という誰にでも身近な経験を用いることによって、社会に存在する痛みをよりリアルに描き出す、という方向だ。

  さて、この映画だ。主題は、恋愛というフィルターを通して描かれる、戦争(徴兵)の圧倒的暴力性なのか?それとも、戦争(徴兵)という道具を用いて描かれる、恋愛の痛さと甘さなのか?どうやら後者のようなのだが、この映画はそれほど面白く感じなかった。両方向からの描写を、絶妙なバランスで、しかも深くえぐり出した名作『恋々風塵』が頭から離れなかったからだ。これを観ることを強烈にオススメしたい。台湾の静かな穏やかな風景描写の中に浮かび上がる、愛した女に裏切られた男の痛みや狂気、そしてそのような狂気を強制した、もうひとつの狂気――戦争徴兵。『恋々風塵』ではこれらが見事に描かれている。戦争を利用した恋愛描写、恋愛を利用した戦争描写、どちらか一方に偏らない、ずっと中道を行くようなバランス感覚を保つということが、映画の生々しさ――リアルという感覚――に不可欠なのだろう。生々しい映画ほど、記憶に残るものもないのだから。

('03 10/29)

 

 

・大いなる幻影/ジャン・ルノワール(仏、1937)90点

  映画評論家・野崎歓の言を借りれば、これは優れて「越境する映画」だ。フランス軍将校とドイツ軍将校が、それぞれ対等な、独自の重みをもった存在として描かれている。ドイツ人という<他者>を排除し、フランス人という<自己>を高みに立たせようとする意図は見られない。敵を、悪役に仕立て上げ物語から排除するのではなく、敵自身の物語をも尊重している。この意味で、「戦意高揚」か「戦争の悲惨さの啓蒙」か、どちらか一方を目指す普通の戦争映画とは異なった世界が、この映画の中には存在する。「味方」と「敵」、という二分法は、見事に越境されている。フランス軍将校とドイツ軍将校は友情を交わす。その男達のドラマは、ひたすら格好良い。彼らが見せる独特の男臭さには、憧憬の念を禁じえない。しかも、このような越境の物語が、1937年に描かれていることにはただ驚くしかない。

  一番好きなのは最後の場面だ。ドイツ軍に捕虜として捕まったフランス軍将校二人が、ドイツからの脱走を企てスイスとの国境にさしかかった場面。雪の積もった山並みをゆっくりとキャメラが捉え、そのまま二人へと落ちる。よくある山並みだ。二人は会話する。「向こうはたしかにスイスか?」「そうとも」「同じ景色だ」「国境なんて人間の作ったものさ。自然は関係ない」「何もかも終わるといい。エルザのところへ行く」「愛してるか」「そう思う」「もし国へ帰れたら、君は飛行隊 俺は歩兵隊。また戦争だ」「もう戦争はやめてほしいぜ。これを最後にな」「君の幻影さ」 このような映画の、このコンテクストだからこそ、見事な映像とキャメラアングルが加わって、「国境なんて人間の作ったものさ」という言葉は比類なき重みを持つ。映像と言葉と音声を同時に駆使できる「映画」というメディアの持つ、強力なメッセージ性を垣間見た。そして、そう、この映画自体が、文字どおり「越境」を目指す男達の物語だったのだと改めて気がついた。

('02 2/23)

 

 

・息子の部屋/ナンニ・モレッティ(イタリア、2001)75点

  パルムドール受賞のこの作品。FILMEXで幸い観ることができた。多くの人が言いそうなことだが、とりあえずこの映画は、変に感傷的過ぎないのが良い。涙を狙いすぎないのが良い。だから自然と観客の涙は零れ落ちる。興味深いことに、やはり子供を持つ親のほうが、この映画に豊かな感情を喚起されるようだ。印象的な台詞。息子の死に関して夫と妻の会話。「もう後戻りはできないのよ」「その後戻りがしたいんだよ!」精神分析医という、人間の理性的側面を象徴するかのようなクールな大人が、まるで子供がダダをこねるかのようにわがまま(心の奥から湧き出る素直な叫び)を発することで、息子の死という出来事の衝撃が、鮮やかに観客の心に響き渡る。

  思えば、精神分析医である父親、という設定は実に凝っている。なぜなら、人間の潜在意識(理性のコントロールがきかない場所)を扱うことに一番手馴れているのが「精神分析」医であるのに、彼自身が精神分析医を休業するという事態に追い込ませることによって、人間の理性的側面の脆さを浮き彫りにしているからだ。人間は、他者の感情(精神)を、客体化して分析的に扱うことができる。しかし、いざ自分の感情(精神)となると、たとえ精神分析医をもってしても、為すすべがない。人間の本質は、「主(体)客(体)未分の状態」なのだろう。その状態に、歴史的に蓄積されてきた人間の「知」(理性)が切り込む。しかし、その「知」は、主客未分という人間の本質と比べるとやはり見劣りしてしまう。この意味で、この映画は、きわめて西洋的な「精神分析」という「知」のあり方がすべてではないということを物語っているのかもしれない。少なくとも、それだけの深さを持った映画だ。

  ラストの演出は凝っていた。死んだ息子の元彼女が、すでに新しい男といちゃついているのを目撃し、父親はせつない気持ちになる。さらに、元彼女と男は、先へ(軽やかに)旅立っていってしまう。この場面には、重要な意味が込められていた。もし元彼女が死んだ息子に未練を残していたら、この映画はひどく後味の悪いものとなっただろう。元彼女が新たな自己構築をはじめ、先に旅立っていく姿は、息子の両親のこれから進むべき道を暗示している。あるいは、両親はそんな二人の姿を見て、ラストシーンの海岸で、はじめて笑顔を見せる。ラストシーンの色調の明るさ(鮮やかな砂の白・海の青・陽射し)は、たとえ観客を泣かせるとしても、決して暗い気持ちにはさせない。実に見事な演出に、なんともいえない涙が零れた。

('02 2/23)

 

 

・ダンス・オブ・ダスト/アボルファズル・ジャリリ(イラン)88点

  台詞の全くない映画。とはいえ、サイレント映画ではない。風の音、砂の音、鉄道の音、子供の泣き声、叫び声…それらの「音」は効果的に配置されている。しかし、台詞がない=字幕が一つも出ないという特質は見落とせない。ワンショットが実に絵画的だ。あるいは、芸術写真的だといってもいいかもしれない。しかし、扱っているテーマは抽象的なものではない。季節労働者として働く子供の、絆、愛の力強さだ。その力強さは、子供のまなざし、あるいは叫び声の強度によって表わされるだけである。だが、それだけだからこそ、そのまなざし、叫び声の鋭さといったら。神がかり的な雰囲気まで漂わせている。「言語」としての音声をすべて削ぎ落とし、ただデシベル(音)として響く音声にすべてを任せたことで、音自体が持つ本来の衝撃が「剥き出しのままそこに在る」という感覚だ。さらにいえば、観客の注意を惹きつける「言語」が介在しないため、映像ですら「剥き出しのままそこに在る」。自然の中に人間が見出す(創り上げる)「自然の」美しさ、まなざし、叫び声、風の音、砂あらし、雨が持つ強さ。それらがとにかく美しく絡み合い、それらシャワーの中で、観る者は至福の時を過ごす。まさに「映像詩」で、詩であるからこそ、何度でも観たいと強烈に思わせる異色の作品だ。

('02 2/23)

 

 

・神の道化師フランチェスコ/ロベルト・ロッセリーニ(イタリア、1950)84点

  キャメラワークの繊細さに降参。木にとまっている小鳥と、その向こうに在る空を、地上から見上げるように映す。どちらかに焦点を絞っているのではない。両方を対等に映している。そこには、小鳥の生命と、小鳥を生かしている神の存在が、同時に映しこまれている。かなたの空に、さやかには見えねども、神の存在が透けて見える。ディープ・フォーカスと長回しによって為せる業だ。背景も含めてすべてに焦点をあわせることで、すなわちあらかじめ意味を与えずに空間を提示することで、空間の意味が複数化する。観客の見方にゆだねられることになる。この映画で一番印象的だったのは空だ。この映画に映る空には、神がいると思えてならない。現実の空をキャメラは映しているのだが、画面の中の空は神聖味を帯びている。実際画面に映っているものだけではなく、その奥へ、空間・意味が拡がっていく映画。つまり、この映画は、空間を押し拡げていく、枠組みを突き破っていくものとしての映画だ。CGなどは一切ないこの時代。ただキャメラワークによって、それを見事に表現したこの映画に、興奮せざるをえなかった。

('02 2/23)

 

 

・アメリ/ジャン=ピエール・ジュネ(フランス、2001)78点

  見終わった後にきゅっと恋人の手を握りたくなる映画。これに尽きる。もっとも、なぜそこまでセックス描写を織り交ぜるのかは謎。メルヘン過ぎる世界に、ある程度の汚さを織り込みたかったのか、あるいは、セックス自体をメルヘンに描きたかったのか。ともあれ、監督の頭の中にある世界を、映画という手段(メディア媒体)を使って表現した映画だ。実に「非現実的」な映画。アニメ的な映画。パリの町並みはパリの町並みではなく、パリの町並み的なもの(監督の頭の中にあるイメージの再現)となっている。だからこそ人は現実を忘れて、幸せな世界に浸ることができる。これは良い面だ。一方、非現実的だからこそ、実際画面に映っている場所から外へ、空間・意味はあまり拡がっていかない。現実に対してひらかれた映画ではないので、映画の中で世界が完結してしまっている。それは映画の可能性を狭めていることでもあるけれど、もちろん、それはそれで見事であり、素晴らしく、しばらく幸せ感に溢れた。

('02 2/23)

 

 

・友達のうちはどこ?/APPUS KIAROSTAMI(IRAN)70点

  キアロスタミ監督の通称「曲がり道3部作」の第1作目。他の作品とこれが大きく違うのは、これがあまりにもシンプルすぎる、ってこと。「キアロスタミな感覚」が、あまりにもそのまま。映画としての、旨みには欠ける作品とも言える。初めてキアロスタミに触れる人には、「クローズアップ」あたりがおすすめ。けど、そうはいってもね、イイ。ストーリーはシンプル。ある子供が友達のノートを間違えて持ってきてしまい、それを返しにいく。それだけの話。ケド、タイタニックより、心の深い部分に訴えてくるよ。露骨に感動させようとかどうのこうのじゃなくて、すごくシンプルに、しかし深淵に、人間が持っている優しさを描く。人間ってこうだよねきっと、と思えてきて、笑みがこぼれる。自分にとっての田舎(故郷の原風景)が、その懐かしさが、少々の憂いとともに耐えがたく魅力的なのは、きっとこういった、この映画を見て、漠然とだけれどもつかめる感覚のようなもののためなんだろうね。なんとなく、そこに日常があるだけで、幸せ。今映画を思い出して、こうして書いてるだけで、幸せ。ぜひ。

('00 3/11)

さすがに昔はあまりにもナイーヴに、キアロスタミワールドを享受していました。現在のキアロスタミへのスタンスは、別の映画をとりあげて、そこに書くことにします。

('02 2/23)  

 

・サンタ・サングレ/...(...)83点

  勇気出して、いっぺん観てみ、コレ。大きなレンタル店にならきっとある。オカルトモノ。ゾウサンの鼻から血が「トロトロ」と流れ出す。後ろからナイフが飛んできて、前に血が吹き出る映像が持つインパクト。その「後ろ→前」っていう方向感に、世界を支配する物理的法則性を改めて確認。この映画が、でも、一番言いたかったのは何なんだろう?って考えるとココロが痛む。

  カルト映画って、まあただ単に悪趣味なだけなのもあるけど、本当はそうじゃないと思う。一見、誤解しそうだけど。実際は、「人間が持ってる悲しい部分」を描いてる。たとえばそれは、オトコのオナニーを終えたアトの孤独感であったり、地下鉄の中で車掌でもないのに車掌の真似をして「次は大崎〜お出口は・・・」って言ってる人を見ると、なんか切なくなったりするその感覚であったり。そういう人間のどうしようもない孤独な(せつない)ところなんだけど。そういったところを、血、とか様々な、ダイレクトに伝わるメッセージ性の強いモノを使って、揺さぶるように訴えかける。だから、カルト映画の背後にも、ある種の世界の真実が見え隠れする。

('00 3/11)



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