April 09, 2004

BBSよりメモ

129 : :02/07/06 08:08 ID:fTNKlLof
フィールドワーク、今でもやってますよ。
でも、もう人類学の専売特許じゃなくなって久しいので、
その意味で人類学の側がアイデンティティ・クライシス状態。
手法(フィールドワーク)はお家芸じゃなくなって、記述
(民族誌)は迷走の果てに行き詰まって、理論は新機軸が
出てきてない。さあ、どこに活路を見出すか、ということっす。

140 : :02/07/09 09:57 ID:rDGVFS7+
というか、一部の先進国をのぞけば、社会科学全体が国策的とでも
というのか、国家に対して何らかの貢献をすることが、大学で
金出して研究やらせる前提になってると思います。人類学の場合も
具体的な数値的サーベイを出すとか、少数民族対策やジェンダー
関連の政策なんかに反映できる応用性をアピールする、といった
ことが求められていますよね。

僕も東アジア某国の人類学科の先生のお話を伺ったときには
「社会的価値を指向しない研究は、先進国の有閑階級のお遊び」
みたいにとらえている印象を受けました。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/11 18:36 ID:pcu9IVe5
>>138
というか、日本の人類学者でそもそもきちんと論理操作ができる人が少ない。
「A を B と言い換えることが説明だ」と思ってる馬鹿が多すぎ。

観察された現象を構成要素に分解して、キチっと要素を定義して、
そこから問題点を組み立てて分析するという、学問の基本的な作法が分かっていない。

多くは欺瞞的な題目を振りかざしてふんぞり返るポモ・カルスタ・ポスコロ馬鹿か、
日本人が行かなそうな地域をフィールドにして、それを隠れ蓑にしてるフィールドヲタ、
この2タイプのニセ学者が跋扈しているのが現状でしょう。

どっちも言葉の雰囲気に酔った「言葉遊び」でオナニーしてるという点では同じ。

146 :141 :02/07/12 13:35 ID:eZPcMdKF
>>143
>名前を変えるよりも早急に対応するべき深刻な問題があるんじゃないかな?

どうもサイトを見たところだと、どうも分野としての知名度と、それに関連して
「いかに金を取るか」という点で名前を変える必要がある、ということのようですが、
いくら分野の知名度が上がっても、自分がやってることをちゃんと構造化して
説明できないようでは、競争の激化が予想される今後の予算獲得争いでは
生き残っていけないですよね。

日本には人の趣味に金を出すようなゆとりは既に無いわけで。

説明の一般性と構造化という、広い意味での「公共性」が確保できない学者、
そして学問はどんどん切り捨てられていくのではないでしょうか。

143さんのいう「信頼」はそのようなことを指しているのだと思いますが、
いかがでしょうか。


148 :144 :02/07/12 14:48 ID:9x4Jyg+q
>>146
>日本には人の趣味に金を出すようなゆとりは既に無いわけで。
>説明の一般性と構造化という、広い意味での「公共性」が確保できない学者、
>そして学問はどんどん切り捨てられていくのではないでしょうか。

これは漏れもあっちこっちで話してることで、一言もないです。
同じ世代の仲間には結構危機意識持ってる人もいるんだけど、
ちょっと上の世代になると「文科省は何もわかってない」
「大学再編が悪い」ってところで思考停止してる人も多いですよね。

今の大綱化〜大学再編の流れがおかしいことは確かなんですけど、
だからって「俺たちのやってることの意味や価値は官僚には
わからんのだ」じゃ、説明責任をまるで果たしてないわけで…。
哲学や文学みたいに本を漁ってればいい研究なら伝統の余禄で
食わせていただくのもやぶさかでないだろうけど、文化人類学
みたいに何かにつけて金がかかる学問を人様の税金使って
やることの正当性を、行政や納税者に対して説得力あるかたちで
訴えてきた研究者って、あんまりいません。時には「まあ、
俺たちはテニュアあるから大丈夫だよ」とか言われたりします。
尊敬している先生にこういうことを言われると悲しい。

漏れは>>146のいう一般性や構造化という方向性だけでなく、
何らかの形で社会的公正の増大に貢献するような研究調査を
していくのが、今後の文化人類学の本道だと思っています。
言いかえれば、具体から出発し、特定の社会的価値の増大を
志向し、そのためには実践的介入を辞さない政治科学という
スタイル。これまで「応用人類学」と呼ばれ、どちらかと言えば
さげすまれていたジャンルの再構築、といってもいいかも。


149 :144 :02/07/12 14:49 ID:9x4Jyg+q
つづき

ただし、ここでの「社会的公正」とか「社会的価値の増大」
の基準は、行政や政治家の考える倫理や価値とは独立である
べきだし、といって研究者達が食い扶持を確保するための
手前勝手な理屈に堕落してもまずいし、いわゆるマイノリ
ティ運動の理念的枠組を「そのまま」反復するものであっても
いけない。そのためには、文化人類学なりに「公共性」概念を
ブラッシュアップし、そうやって確立したポジションから
さまざまなアクターの相互関係に対して批判的に介入していく
必要があるんじゃないかと思っています。

こうした実践的アプローチの土台を作るためには、いわゆる
ポスコロ/カルスタものもちゃんと読んでおかなきゃいけないと
思うんですけど、>>141さんはどう思います?


150 :141 :02/07/12 14:50 ID:eZPcMdKF
>>144
>あなたの言う「フィールドヲタ」はそれとは違うんじゃないの?
は、まさしく
>見た現象を文化人類学の語彙でフィルタして表現しなおすだけ、
に当てはまると思います。

が、これもやはり出典や議論の文脈を押さえてないとただ空虚に響くだけですね。
私が一括りにした「ポモ・カルスタ・ポスコロ」の共通点はそこです。

文脈を押さえて定義付けをちゃんと行えば、こうした括り方はできないはず
なんですが、意図的なのかどうなのか安易な政治的利用をするという点が
共通していると感じられます。

>文化人類学のre-creationを志向するような理論的研究、ここ最近何かありました?

どうなんでしょう、少なくともアメリカの人類学なんかでは社会の各要素を組み立てて
モデル化して社会変化について考察したり、進化生物学の議論を導入したり、いろんな
理論的な試みは行われていると思います。

こういう動きはまだ日本の人類学では見かけませんよね(もちろん私が知らないだけかもしれませんが)。

「社会科学」を指向するなら、こうした試みは至極真っ当だと思うんですが。


151 :141 :02/07/12 14:50 ID:eZPcMdKF
で、みなさんは文化人類学のアイデンティティ(と言われている)、
「フィールドワーク」についてはみなさんどう思われますか?

どうも「第三世界で」フィールドワークしないと一人前じゃない、みたいな風潮が
今の日本の文化人類学にはあると思うんですが、私はこれが理論的フレームワークに関する
議論を深めていけない理由のような気がします。

もちろん現実を知るという意味でのフィールドワークの重要性は理解できますが、
現実を「見る(分析する)」には適切な理論的フレームワークも必要だと思います。

社会学ではある程度実証性を犠牲にして、そうした理論的フレームワークのみで
議論を行うといった流れはありますよね。

で、人類学において、そのように理論的フレームワークについての議論するには、
理論間の融合を図る、といった試みが必要になってくると思うのですが、
上に挙げた風潮がそれを妨げていると感じられます。

このへんはどうなんでしょうか。

152 :141 :02/07/12 15:02 ID:eZPcMdKF
おっと、レスが付いていた。
リアルタイムでレスの付け合いをしているようですね(笑

>>148-149
>何らかの形で社会的公正の増大に貢献するような研究調査を
>していくのが、今後の文化人類学の本道だと思っています。

全く同感です。

私はこうした問題意識を持っている人間は少なくないんじゃないかと
思っているんですが、それも旧態依然とした意識を持つ人たちに
芽を摘まれているように感じます。

>さまざまなアクターの相互関係に対して批判的に介入していく
>必要があるんじゃないかと思っています。

これも激しく同意です。

これこそが社会科学ですよね。

>こうした実践的アプローチの土台を作るためには、いわゆる
>ポスコロ/カルスタものもちゃんと読んでおかなきゃいけないと
>思うんですけど、>>141さんはどう思います?

私自身の実践には今のところ直接関係ないので本格的に勉強する予定はないですが、
本家の(カルスタではない)カルチュラル・スタディーズや、
(ポスコロではない)ポスト・コロニアル研究は真っ当な研究だと思います。

私が本当にびっくりするのは、カルチュラル・スタディーズやポスト・コロニアル研究で
得られた成果を踏まえず(端的に言えば読まず)に、そこで使われている、難解っぽく
聞こえる専門用語を使ってガクシャを気取っている人たちがいることです。

こうした人たちが淘汰されないのは何故なんでしょうか。

195 :190 :02/07/25 21:10 ID:2gjPylBc
>>193
> 私の学問の作法とはだいぶ違うようなので、

まさしくここが問題なのだということに気付かないのだろうか。
つまり、このスレの主旨通り、方法論が間違っているということなんだけど。

偉い先生の言うことをへーへー聞いてマネしてるから、
業界に意味不明な恨み言言ったり、研究が煮詰まったりするんだよ。

ちゃんと真摯に論理とは何かとか、科学とは何かとか、問い続けてないとダメだよ。
なぜだかは知らんが、「文化人類学」に閉じてる人って多いね。


208 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/26 18:47 ID:zfEFSk03
>> ミードどうこう以前に、学問の作法として、先行研究を踏まえて
>> 対象とする研究を見て、そしてfurther discussionを参照するのは基本でしょ。
> 脈絡がわからない(ひょっとして別の人へのレス?)、しかも一文としても意味不明。
> 学問の作法ですか。先行研究とfurther duscussionはどういう関係にあるのですか?

って、本気で言ってる?この意味が分からない意味が分からない。。。

190が言ってるように、それ(先行研究を踏まえて対象とする研究を見て、
そしてfurther discussionを参照する)が出来ていないバカは、実際多いよ。
その結果、つまり先行研究を踏まえながら理論を固めていない結果、もしくは
自分自身の人類学者としての立ち位置を問い直すことがない結果(これも、特に
理論的な先行研究をきちっと踏まえないゆえの無反省さに起因するだろう)、
「単なるその土地の物知り博士」=「人類学者」と勘違いして満足している奴は
たくさんいる。

でもそれを、「人類学者」として一般化するのはもっと馬鹿げてないか?
俺も、日本人研究者のなかに尊敬することのできる人物は多くないし、196みたい
に軽蔑してしまう「大御所」もいるけど、でも、憧れの学者もいる。
193が人類学やってる人なら、もうやめちゃったら?
制度云々じゃなく「人類学という学問」そのものに嫌気がさしているようだから、
もう無理してやっていく必要ないと思うよ。


209 :208 :02/07/26 19:15 ID:zfEFSk03
あ、ごめん。
193が嫌気がさしているのは「日本の」人類学だね。
人類学そのものってわけじゃないみたい。やめたらなんて言って、スマソ。
ま〜、日本人人類学者の研究に、心惹かれるものが少ないっていうのは
俺も一緒だけど、海外の教育状況は経験したことないからなぁ。
193はアメリカかどっかで教育受けて帰って来て、それで日本の教育の
現状を見るにつけ、怒りが湧いてきたのかな<人類学を愛するがゆえの怒りなのかも・・・
どこに留学してたの?うらやましいよ。


220 :    :02/07/28 21:40 ID:HKkvvkwM
>>218
217だけど、理系の学問分野でのミード批判については、不勉強で知らないよ。ごめん。
(生物学的な決定論の立場から)つまり、「性は文化には左右されない。生物学的に先天的に
決定されるもの」という批判なのかと予想するけど、そのこと自体については、残念だけど、
どうしてもすれ違ってしまうし、生物学者の意見を踏まえる人はいたとしても、生物学者の
側に立つ人類学者は少ないと思う。
それが人類学者側の不勉強に起因するものである場合もあるだろうけど、多くの場合は次の
ような理由によると思う。
基本的に人類学は、「(自然)科学」を普遍的で実証的で客観的なものとして見なすことを疑う
立場に立つ。
人類学は「客観性・実証性」を捨てた学問だ、とは言わないし言えないけども、少なくとも
その客観性は自然科学とは違う種類のものだろうし、一旦相対化された後のものだ。
例えば、異文化における呪術や民間医療なんかを「非科学的」と言って切り捨てるような
態度を避けると同時に、西洋科学的な因果論こそが全てを説明し得る「至高の」法則なのだ
という考え方に対する反省的態度を促したりもするんだ。
科学的な実証性の立場から「迷信と見えた物が実は科学的根拠を持っていた!」というような
種明かしをする立場もある(あった)けど、少数派かな<そうした研究は面白いけどね。

人類学からのミード批判は、(俺が知ってる限りでは)端的に言うと、ミードがサモアを
「南国の楽園」的イメージで描いている(最初からそういう視点を解釈に持ち込んでいる)
という点に関するもの。データのズサンさも槍玉にあげられた。

以上のようなことなので、人類学の言っていることが「自然科学から見て誤り」と批判され
ても、議論のカテゴリーのレベルが違う(→すれ違ってしまう)のは分かってもらえるだろうか。
(カテゴリーミステイク、と言えると思う。)
俺はどうしても人類学の肩を持ってしまうけど、自然科学をメタレベルで分析することも、
哲学や人類学の役割のひとつなんだと思うよ。
「だからクソ学問なんだ」と言われたら、今の俺には、それに対して反論するだけの知識も
力量もないので、ごめん、他の人にバトンタッチさせて欲しい。
(このスレには俺なんかよりもっといい論客がいるので、どなたかお願いします!)

221 :212 :02/07/28 23:03 ID:B8bq/6F8
>>218
つまりが、現在の教科書や入門書を書く立場の人がA理論止まりの人ばかりってことです。

もちろんそんなことでは研究なんて立ち行かないから(社会科学であろうとするならなおさら)、
当然競争が過酷な若手の人は、B理論としての知識なりディシプリンなりを自分で
身に付かざるを得ないのですが、それはシステム的に一定の方向性あるいは選択肢として
教えられるものではなく、自分の努力によって、まず最初の部分からやっていかなきゃならん
ということです。

理想論としてはそれが当たり前でも、そこまで自分でちゃんとできる人は数として
そう多いわけではなく、いきおい研究の質に大きなバラツキが出てしまうことにつながっていくのです。

また、そうした問題以外にも、このスレで何度か出ているように、自分の「A理論止まり」を
カモフラージュするために安易な学問の政治的利用を行う人達も少なからずいて、
そうした人達がまた学生にプレッシャーをかけていたりするんですな。

208の言うような、「ある土地の物知り博士(=フィールドヲタ、かといって地域研究者には劣る)」
もたくさんいるし、まぁ「日本の人類学の惨状」ってのはそうしたいろんな側面があるわけです。

>>219
いい教科書を書くには、「それまでの研究から要点を把握して簡潔に書く」という、
非常に高度な、それこそ研究者としての力量が問われる部分があるから、
基本的な学問の作法(先行研究とfurther discussionの検討、データの扱い方など)すら
できていない日本の文化人類学者には荷の重い(というか不可能な)話なんでしょう。

投稿者 gen : April 9, 2004 05:03 AM | トラックバック
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