March 28, 2004

つらつらとpickup、吟味対象

★岩壁の断崖が、私の足元で、深淵の上でどっしりと休んでいる。
千の小川が輝きながら流れ、恐るべき滝となり、飛沫をあげる。
己の力強い衝動に従い、樹の幹が空へすくすくと伸びる。
この様に全てを造り、育むは全能なる愛のわざである
(ゲーテ)

★読書は充実した人間を作り、書くことは正確な人間を作る。
(フランシス・ベーコン)

★大いなる思考は会議で生まれた事はなかったが、馬鹿な多くの考え方もそこで死滅した。
(フィッツジェラルド)

★人生は前進するしかない。
だが、それを理解できるのは振り返った時のみである。
(ゼーレン・キルケゴール)

★人の生活は常にこの二つで成り立っている。
したいのに、できないことと、
できるけど、したくないこと。
(ゲーテ)

★人間が想像できる全ての出来事は、起こりうる現実である。
(ウイリー=ガロン)

感覚的にはうまいたとえ

 518 名前:考える名無しさん[] 投稿日:04/03/19 21:53
 子供たちがみんなで空き地に野球をしに行くことになった。
 行く途中、ある一人の子が道端にアリたちがぞろぞろと巣穴にものを運んでいくところを見つけた。
 その子はそのアリたちの生態に心を掴まれて、
 他の子たちをほっぽらかしてずーっと見守ってその場から動こうとしない。
 「そんなのどうでもいいから、早く空き地に行こうぜ」と他の子は言うが、
 その子はそんな声も耳に入らず、アリたちに見とれてその場から動こうとしない。
 結局他の子はその子をその場に置いて、空き地に野球をしに向かう。

 その子がアリたちがすっかり巣に入るのを見届け、
 「見て見て!このアリたちすっごく面白いんだよ!」と
 他の子たちにその面白さを教えようと声を上げるも、
 その時にはすっかり日は暮れ、当然のことながら周りにはもう誰もいなかった。


 哲学にとり憑かれた人って、このアリを見守ってた子供のようなもんだと思うんだな。

大森荘蔵『言語・知覚・世界』序

ヴィトゲンシュタインは哲学をハエ取器にかかったハエにたとえたが、
もしそうだとすれば哲学の行路の軌跡はそのようである以外にはあるまい。
さらに、ハエが脱出し哲学が完結するといった事態を想像できる哲学者は
いるのだろうか。完結し終了した哲学史なるものを考えることはできるのだろうか。

哲学の作業を音楽になぞらえるならば、それは作曲というよりは演奏に近い
ように、私には思える。それは変わることのない主題を人それぞれが演奏する。
人間の生き方がさまざまでありながらも、それは同一の主題、利欲や野心や
愛憎の、情熱や心苦や倦怠の、弾奏であり歌であるのと同様に、哲学もまた
いくつかの変わらぬ主題の演奏であると思える。そしてこのことには理由がある。

哲学が常に面するのはこの世界と人間である。それは科学と異らない。
だが哲学は望遠鏡や電子顕微鏡で世界と人間を探索するのではなく、
世界と人間のあるがままのあり方を「みてとる」ことを求める。遠い星や
地球の内部、また細胞の極微の代謝機構が科学者にかくされている、
という意味ではこの世界と人間は哲学にとって何らかくされていない。
世界と人間はあからさまに、そのすべてをさらけだしてそこに在るのである。
科学者にその細部や遠方がかくされているというその在り方で、あからさまに
在るのである。だが、そのあからさまにそこに投げ出されてあるものを
どう眺めるか、どうみてとるか、そしてそれをどう言葉に定着するか、
それが哲学の作業である。

哲学は科学のように新事実を発見したり新理論を発想しはしない。
哲学に新事実というものがあるとすれば、それはかくし絵の中のかくされた
姿をみてとること以外ではない。
そのかくされた姿とはすでにそこにあからさまに在り、すでに見られていたものを
「みてとる」こと、それが哲学なのである。科学が news に向うとすれば、哲学は
new look に向うのである。

だからこそ、哲学は専門ではありえない。
物理学や経済学が専門であるようには哲学は専門ではなく、哲学に素人と
専門家との区別はない。誰であろうと生きているかぎり、世界と人間をある見方で
「みてとって」いるからである。ただ普通以上にその「みてとる」ことにかまけ、
「みてとる」ことを明確に意識的に遂行しようとするとき、それが哲学専攻と
言われているにすぎない。

哲学は古来変わらぬ主題群の果てることのない演奏だと私には思えるのである。
そこでは一人の演奏の終わったところから次の人が引き継いで演奏を続けると
言うことはできない。誰でもみずから始めから演奏を始めなければならない。
それがいかに拙いものであるとしてもである。
そしてまた、音楽の演奏がそうであるように、繰り返し巻き返し演奏をやり直さねば
ならないのである。そこには終了といったものもなく完結というものもない。
つねに未完であり、絶えざるやり直しがあるだけである。

哲学とは本来、途上のものであり、終わりのない過程なのである。

                    (大森荘蔵『言語・知覚・世界』序)

March 27, 2004

戻ってくる語り

★何かを思い、何かを語る。それはあくまで自分の意見である。他者に強制はできない。でも自分の信念に基づいて「それは違う」と思った場合、どうすればいいのか。どうしようもないこの感情、正当性。とりあえず自分が存在を賭けるならば行動に移すべき。でもその行動とは何か?書くこと?語ること?説得すること?社会運動を行うこと?あらゆる情報は所詮他者から伝え聞いたものであり、本当のところはわからない。その上でなにを語りうるのか?どう行動しうるのか?

自分に直接かかわらない問題にまったく無関心を装うのは何か違う。でも、そもそもこれほど難しいのに、いったいどうしうるのだろう?とりあえずは広く関心を持っておくしかないのだろうか。

★最終的には「私は‥」という形でしか語りえない。でもただ単に自分が思うということではなく、もっと普遍性を含んだところの「私は‥」に最終的には回帰してくる。それはただ単に「結局は自分のことしか語り得ないから自分のことだけ語ればよい」という態度とは異なり、質の異なった「私は‥」の語りだ。とりあえずはこの方向性を目指すしかない。

★とにかく言葉の背後に存在するものの重みが感じられるかどうか。これに話し手が放つ言葉の「強度」が大きくかかわってくる。たとえ学者を目指すとしても、絶対にこれを忘れないこと。この「強度」を意識し生きてゆき、その地平に立っていること。

★文章のおいしいところだけの抜粋をもとに語るのではなく、比喩的にいえば、一冊の「ボリュームとして」語ること。これが欠けている。

朝生を観てその他

★語りそのものの内容ではなく、語り手がいかに語るかというその人間そのものを観察し参考にする場としての「朝まで生テレビ」とかシンポジウムの有効性。「強度」への視点からの観察。

★右翼にしろ左翼にしろ、ひとたび集団がある方向に動き出すと、その集団の方向性はかならず先鋭化する。逆方向へ戻すような意見は、日和見主義として軽んじられ、過激な意見が通りやすい集団力学が働く。この際集団を構成する者の頭がいいとか悪いとかは関係ない。戦時中の軍部の暴走も同様のロジックによって語りうる。何事かをはじめるのは簡単だ。しかし止めるのは、困難を極める。

★資本主義=利益主導。全共闘=利益(自民党政治)<理念主導。全共闘の崩壊→ふたたび利益主導型へ。個人としては理念を持って生きていても、ひとたび政治のことになると無関心・なーなーになるメカニズムはなにか。

★全共闘は本来抵抗運動から始まった。武力を得たりしていつのまにか権力奪取までを目指す運動へと進んでいったが、権力奪取後にどういう社会を実現すべきかのビジョンがなかった。もとは抵抗運動として始まったのだから。だからこそ、全共闘指導部の正当性を担保するものは「党」であったりし、結局は自らがスターリン主義を再演することにもなってしまった。

★革命戦士ははじめから存在するものではない。個人内の革命をまず行うことが重要。だからこそ自己批判・他者批判を徹底。集団メカニズムにより殺人にいたる。でもそこから逃げ出すことは、すなわち自分の正義からの逃走でもあった。だから逃げ出「さ」ない。リンチ殺人。

★自衛隊イラク派遣。国益主導の派遣。じゃあ兵士がイラクで死んだ場合、「国の利益のため」に死んだということだけで納得がいくか?やはりなにか大義が必要ではないか?明確な大義を考え付かない現状としては、イラクにまだ派遣すべきではなかった。(宮崎哲弥)

★オウムの問題は「だらしなさ」にある。麻原が何も語らないことが、オウム信者にとって、まだ凄みを効かしているのかもしれない。おそらく教祖化するのは間違いないだろう。

★民衆のため。人民のため。なにかを「代理して」行動を起こすことの危険性。歴史が証明する数々の出来事。よって、自分と他者のうさんくささのない付き合いのレベルに即して、社会を考える必要があるのではないか(小阪修平)。←でも政治の本質からいって代理性は不可分なのではないか(宮崎哲弥)

★存在を賭けて語る言葉の「説得力」。この意味で遥洋子>香山リカ。知識レベル云々以外の姿勢の問題で。