June 25, 2004

自分の存在を賭けて解釈する

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/040623さんよりコピペ。下線部強調部Gen.

#
svnseeds
『どうもです。人間には人間としての認知の限界があり、故に世界を総体としてでなくモデルとしてしか認識できない、という点は激しく同意します。ただ、そのモデルを構築した主体は限界のある人間の認知活動であるため、その限界の故にモデルが正しいかどうかを判断することはできない、とするのはどうでしょうか。その批判そのものがトートロジーに陥っている点はおくにしても、その立場では今までに蓄積された自然科学/社会科学の様々な知見を説明することが出来ないのではないかと考えます。▼認知の限界を打ち破る方法として、科学は実証やピアレビューという方法論を発達させてきたわけで、そうした方法論の有効性を否定するのに、モデルの検証はトートロジーであり不可能だ、とするのはあまりにnaiveだと考えますがどうでしょう。▼唯一その批判が妥当する状況があるとすれば、すべての人間が過去・現在・未来のすべての時間に渡って完全に等しく認識する現象のモデル化についてでしょうが、我々はその現象を世界なり自然なりと表現しているわけで、結局僕には何も言っていないように思えてなりません。▼少子化傾向のデタラメなモデルにせよゲーム脳にせよ、それらに対する真っ当な批判が存在する限り、モデル検証のトートロジーの罠のはるか手前に我々はいると僕は理解しています。つまり「やってみるしかない」以前といえます。いかがでしょう。▼余談ですが、価格と通貨量をトートロジーとするのは貨幣ヴェール説といいまして、ケインズ以前の経済学であり、つまりマクロ経済学ではありません。貨幣ヴェール説は長期においては妥当するが短期・中期では妥当しない、というのが現在のマクロ経済学の(流派wを超えた)理解です。▼論より証拠。大幅な財政政策と金融緩和で景気回復しつつある米国、通貨ペッグにより中銀の仕事を米国にアウトソースしてデフレ脱却・今度は景気が過熱しすぎてしまった中国、中銀がまともな仕事をしないおかげで未だにデフレを抜けられない日本、すべて貨幣ヴェール説では説明がつかず、一方入門用マクロ経済学の知識で説明がつくものです。▼ってまた長くなってすみません。』

#
finalvent
『svnseedsさん、ども。ええと、私が誤解しているかもという留保は大きくするのですが、svnseedsさんの基本的な主張にはちょっと誤解があるかと思うのです。その中心はセンスデータと「時間(可逆性)」です。このあたりは、ちょっとテクニカル(哲学的に)な話でもあるんですが、簡単に言うと、svnseedsさんは素朴実在主義なんですよ(むっとされたらすみません、あえて戯画的に言うのです)。実在をもって検証可能だというわけですね。それに対して、私の思索では、実在を基本的に排除し、それをセンスデータ(簡単に知覚・認知と言ってもとりあえずいいです)としているわけです。で、知覚というのは、我々の実は生の志向性としての快・不快でもあるのです。で、モデルと理論のトートロジーのセットに対応するのは、実在ではなく、こうした好悪のセンスデータです。▼ただ、個別にマクロ経済についての、通貨と価格については、概ねsvnseedsさんの言われているほうが正解だろうとは思うのですが、この点については、ちょっと疑問は残ります、と言って、前回、米国の雇用について自分の勘が外しているのでなんとも言いづらいのですが、この問題は浅田彰ふうな超システムの問題ではないか、と。つまり、モデル自体に超システム(たぶん、全体を再帰的入れ子にするようなトラップがある)のでは、というと曖昧過ぎるのですが。▼話を戻して、モデルと理論のトートロジー性ゆえになにも言えないのではなく、人間の生命的な知には「企図性」というものがある。つまり、サイコロの目は1/6は命題ではない。が、それを「私の生(life)」が命題として受け止めようという決意です。カント的な意味での自由でもありますが。▼明日雨が降るかも知れない(科学言明)、というとき、確率とは、ある妥当なコミュニケーションの指標となります。その意味で、妥当な世界の合意というのが社会学的な確率性の意味であり、モデレートな「企図性」です。って、話が、なんだか、現代哲学的に曖昧ですが、ようするに、そうした企図性(言葉が拙いですが)、自分の命を賭ける自由と他者との共同性の意識というものが、科学の根底にあり、それが意識化されないと、実在主義に堕するのです。え? なぜ実在主義でははいけないのか? いけないんですよ。人生には希望があるからで、実在主義とは破滅していく巨大なからくりです。』

#
essa
『内容でなく難しさを簡単に説明するのも難しいですか。「このへんに非常にデリケートで難しい問題がある。うっかり手を出すとヤケドする」という認識くらいは、一般常識として、せめて理系でも頭いい人には持っていてほしいなと思います。▼「人間の生命的な知には「企図性」というものがある」という表現には、すごく共感するのですが、ウェーバーはこういう感じなんでしょうか?』

#
finalvent
『essaさん、ども。なんかドツボっていてお恥ずかしい。基本的に現代、とくに米国的なアカデミズムの流れで見るなら、自然科学と社会科学は方法論的に同じと言っていいと思います。つまり、それは、モデル化+数量化=対象操作可能、ということです。そして、その対象操作の予測に対する正否で理論の良さを評価するというのも同じです。すると、つまるところ、社会科学と自然科学は。対象の違い+その学問の派閥の歴史的な経緯、ということになります。逆に言うと、現代はそうなってしまったので、自然科学と社会科学の違いの議論はこの土俵では無意味に近いということになりました。▼マックス・ウェーバーが社会科学と自然科学は違うのだ、ということにものすごい知力を傾けたのは、自然科学としてのマルクス主義に対抗しなくてはいけないという課題があったためです。少し話がそれるのですが、ポパーなども反マルクス主義ですが楽観的にそれは根本的な誤解だと頭ごなしに批判していきます。▼社会科学と自然科学の峻別が学問の課題になるというのは、前世紀におけるマルクス主義の受容に大きく変わっているという歴史背景があります。実際ところ、社会に応用されたマルクス主義というのもは社会を自然対象のように操作しようとするわけです。この点で、ケインズ以降のマクロ経済学も類似の側面があります。▼マックス・ウェーバーがこう言っているというわけではないのですが、私なりに簡単にまとめると、自然科学と社会科学の違いは、モデルの扱い方です。どちらもモデルを立てるのですが、自然科学は実験によるモデルの妥当性ということからモデルを評価していきます。これに対して、社会科学のモデルというのは、社会とはあくまで人間が組織したものですから、その人間の行動を支配する思考のモデル(これをウェーバーは理念型と言います)ということになります。漫画化した例では血液型も理念型の一つです。A型はこういう行動をする、というわけです。そこで、こうしたモデル=型の思考の内部に研究者が入って、どのように行動するかを自分の主観で考えてよいのだ、というのが、ヴェルト・フライハイト(価値自由)ということです。主観なんだけど、理念型の縛りを掛けるところがところが社会科学だということです。そして、このように自分の主観と別の主観を許すというのもヴェルトフライハイトでもあります。▼このように、複数の主観が許せる世界というのをウェーバーは「神々の闘争」ととらえていて、つまり、唯一の価値がないから、それが可能になったのだということです。つまりをかさねますが、つまり、自然科学と社会科学の差異は、後者は自己の主観を理念型によって縛った理念によって相対的に自覚されるということです。自然科学では、自己の主観は巧妙なかたちで客観に似たものにすり込まれます。が、それらは、同一の評価基準によって争うことが可能です。社会科学にとっては、そのような評価基準ではなく、歯止めのある主観同士の向きだしの争いになる、そしてそのことを自覚するということです。▼とはいえ、話が戻りますが、現在の米国風アカデミズムの世界では、社会科学は限りなく自然科学的に振る舞います。▼それでいいのか? そこ(現代の学問)に陥穽はないのか? あります。単純に資本主義・自由主義の興隆という例が面白いでしょう。マクロ経済学的には中国を発展させることや日本経済を立ち直らせることは、単純な教科書の応用であり、国家側の操作性に委ねられることいなります。つまり、ここでは、国民はどの国民でも同じ、のっぺりとした対象です。しかし、ウェーバー流の社会科学ではそのようなことはありません。原始蓄積を可能にし生産を禁欲的に行うエートス(精神性)をもった国民性の出現というものが資本主義の興隆の条件となって現れます。この点で、ヴェーバー的に言えば、中国は資本主義にはなりません。そんな馬鹿な? そんなのは学問めいた冗談ではないか? …私の人生のうちにこの中間的な結論を目にするだろうとは思います。』

#
svnseeds
『ご丁寧にどうもです。なるほど、「人間の支配の意図」とか「我々の『生』の構造における機械性」とか、よくわからんなーと思ってすっ飛ばしてた部分がまさにキモだったんですね。わはは。▼僕の主張(というほど大げさなものではありませんが)に対するfinalventさんの理解は間違いないと思います。finalventさんの用語で言えば、僕はセンスデータと実在は不可分なものだと考えており、両者を区別することの意義がわからない者です。素朴実在主義かどうかはわかりませんけども(笑)。▼両者を区別するのは、例えて言えば、「光が存在しないとき、物質は何色に見えるか?すなわち物質の色そのものとは何か?」を問うことに似ていると思いました(ちなみにこの問は僕が小学校の頃に悩んでいたものです(笑))。僕が得たとりあえずの結論は、「光がなければ色はない。物質の色そのものを問うことに意義はない」というものです。▼そしてここで言う光とは人間の認識であり、色とはfinalventさんの言うところのセンスデータであり、物質の色そのものとは実在なのだろう、と思った次第。色と色そのものを区別はするけど、その区別に意義はないとするわけです。ってあーやっぱり素朴ですかね?わはは。▼あと、実在主義と希望が相容れないものである、って点もよくわかりませんでした。恐らく説明していると本が一冊書けてしまうだろうと思われるので、これ嫁ってのを教えていただけるとありがたいです。▼別件ですが、マクロ経済学が社会を自然対象のように操作しようとすることの問題というのは、操作する主体が国家であること、なんでしょうか?更に別件、中国はずっと共産主義だったわけではないので、僕は非常に楽観的に見ています。単純に台湾、香港、シンガポールと比較するわけにはいかないでしょうけれども。中間結果が楽しみですね。』

#
finalvent
『svnseedsさん、ども。ちょっと意地悪な問いかけに取らないでほしいのですが、量子力学の「ベル不等式」というのを知っていますか? と訊くのは、これを知らないと、実在だのセンスデータだのという話の現代的な意味はほぼないんですよ。見えるものと実在の差みたいなのは、古典的な世界においては、ある特殊な哲学的な志向の人の課題に過ぎないし、そんなものまるで意味ないと言ってもいいくらいです。ただし、古典的な世界には超越者が想定されていました。人類が「ベル不等式」というのを知るに至り、実在とはどうしようもなく奇っ怪なものとしか言えないということになってきました。もうちょっと意地悪な言い方をすると、「ベル不等式」を知らないのは、この宇宙に生きる意味の幾ばくかを失っているに等しいです。で、ご存知なら、ベル不等式が示す、我々のセンスデータを越える世界をどのように理解しますか? このあたり、量子力学のプロパーは単に式を示すだけです。式が認識を表すQ.E.D.というわけです。しかし、それは、端的に言えば、数式が扱えるといういわゆる理科系であることを誇っているだけで、式の意味を認識しているわけではありません。「ベル不等式」自体は技術的な意味での量子力学には重要でもなんでもありません、と過ごしてしまうわけです。』

#
svnseeds
『どうもです。えーとですね、なにぶん教養が足りませんで「ベルの不等式」は寡聞にして存じ上げなかったわけですが、色々ぐぐって調べてみたところ、「ベル不等式が示す、我々のセンスデータを越える世界をどのように理解しますか?」に対する僕の回答は、端的に申し上げれば、知ったことか、ですかね。▼というのも、ベルの不等式を持ち出すべくもなく、我々の認知に限界があるのは明らかなわけです。そんなのは元から大前提ですよ。ベル某がなんと言おうと、僕の世界は意味に満ち溢れていて豊饒至極です(笑)。▼その上で申し上げたいのは、そのような限界があるが故に(自然/社会)科学的な方法論が無効であると主張するのが正当かどうか、と言うことです。僕には、量子力学レベルでの不可知論を持ち出して自然科学/社会科学の方法論を否定する(ようにとられるようなことを言う)のは無責任極まりなく思えます。如何でしょうか。▼それと、意地悪な問いかけにとっていただきたくないんですけれども、自然科学的な方法論に疑問を投げかけている一方、量子力学に過大に論拠を置くのは如何なものかと正直思うところではあります。このあたりはどうなんでしょうか。▼ってレトリックに走りすぎましたか。すみません。お互い様と言うことで。わはは。』

#
jouno
『無効であるという主張をしているわけではないんじゃないでしょうか。自然科学というものを相対化し、自然科学的問題設定というものの、哲学的、社会学的な含意を明らかにするということは、自然科学の、世界を操作可能な数量化された対象として把握する能力、有効性をうたがうものでは微塵もないでしょう。』

#
kagami
『『自分の命を賭ける自由と他者との共同性の意識というものが、科学の根底にあり、それが意識化されないと、実在主義に堕するのです。え? なぜ実在主義でははいけないのか? いけないんですよ。人生には希望があるからで、実在主義とは破滅していく巨大なからくりです』…いやあ、感動致しました。アルベール・カミュがシーシュポスの神話の中で同じニュアンスのことを述べておりますが、現代の世でこういったことをきちんと述べてゆける方がいることはまさに希望を感じます…。私も同感です。』

#
finalvent
『svnseedsさん、ども。うまく通じてないなという感じはあります。▼「限界があるが故に(自然/社会)科学的な方法論が無効」ということはないです。この点は、jounoさんが補足された点でもあります。これは基本的な現代国語レベルの読解の問題かなと思うので、それ以上はもういいでしょう。悪意にとらないくださいね。▼前提的な話に戻って、全体の話のフォーカスは、「我々の認知に限界があるのは明らかなわけです。そんなのは元から大前提ですよ」ということではないのです。ベル不等式が示すものはディパーニアの言葉(訳語ですが)を借りると迂遠な実在という、ある種畏怖を感じさせるなにかなのです。私の知覚には限界がある…それはあたりまえだし、つまらない話です。そうではないのです。パスカルのように私の知性はそれを越えて畏怖に出会っているのです。その畏怖と人間知性の超越性というもののがわからないと、こうした問題への情熱の根が見えないだろうと思うです。ブライアン・ジョセフソンが尊敬する人をベルとしたとき、そこに戦士の勇気のようなものを感じるのですよ。▼嫌われる言い方かもしれませんが、なぜ知を求めるのか? 私はある意味で単純なのです。そこに底知れない美があるからです。この美は悪魔的でもあるのですが…、それは深く、永続的で静かな陶酔です。そうしたものを与えてくれたものの、巨大な一つが「ベル不等式」です。また、ゲーデルの不完全制定理(自然数の超越性)です。この美がいくばくか彼らの知性を世間からみると狂わせたかとしても、しかたないでしょう。もしかすると、この美は、MDMAより強烈かもしれません。なにもこんな大きな美と畏怖に出会わなくても、カントールの対角線論法にも美はあります。美しい!』

#
svnseeds
『どうもです。「自然科学理論とは基本的にこのトートロジーしか意味していない」とか「数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ」ってところを「科学的方法論は無効である」と言っているのだと理解してました。そうではないとすると、結局ここで何を主張されてるのかさっぱりわかりません。やっぱり読解力の問題なんですかね。うひ。▼それと、生とか人間の支配の意図がどうのって話もわかんないですね。そういうものをあえて外から(内から?)導入する意味がわからんのです。話を複雑にしてるだけのように思えます。認知に限界があるって単純な話と、その畏怖とやらがどう異なるのかもよくわからないですね。が、これは世界がどう在るかについての見解の相違なんでしょう。やっぱりわからんということがとりあえずわかったので僕は満足してます。▼長々とお付き合いいただきどうもでした。ではでは。』

#
finalvent
『svnseedsさん、ども。雑に書いているせいもありますが、別に難しい話ではないと思うのです。というか、ちょっと嫌みに聞こえるかもしれないけど、svnseedsさんのような切り上げ方を他の人がされないためにも補足しておいたほうがいいかなと思いました。▼「数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ」……だから、意味・有効性は、その外部との関係になる。実験などだしかし、その外部との関係はモデルの総体の正しさを保証しない。ある現象においてあるモデルの個別の命題が妥当である、または反証されるだけ。それ(実験的な正しさなど)を、我々がどう受容するかというのは、あくまで我々の選択(価値判断)にかかっており、この営みの構造の根底に生の意志がある。ニュートン力学が間違っているのでも量子力学が合っているのでもない。我々が宇宙に対してどのような態度を取るとき、そのモデルを選択するかという問題が現れる。▼このように、自然科学は宇宙・自然への操作性・開発の意図を持つ。そもそも人間存在がそのように自然・宇宙に働きかけ、服従させようとするからだ(ピアジェ的に穏和にアコモデーションと言ってもいいが)。社会科学は自然科学に模倣することは、その数学化によって可能になり、モデルと命題の関係も同じなる。が、そのとき、社会科学とはどのように人に選択されるのか。それは、当然、人間を支配するという意図であろう。と、難しくもないでしょ?▼自然科学と社会科学の、ウェーバー的な違いは、モデルと対象の対応を機械的に、つまり因果的に捕らえるか(自然科学)、あるいはモデルによって主観・了解を働かせるようするか、にある。なぜなら、人には自由意思があり、主観がある。そのなかでどう了解を研究者の主観から遠隔させるかということが、モデル=理念型という装置の意味であり、その理念型を駆使できるという根拠性がヴェルト・フライハイト(価値自由性)である。▼「認知に限界があるって単純な話と、その畏怖とやらがどう異なるのか」…についてだが、後者も単純な話だ。人間はは自己を越える未知なるものに畏怖を持つ。それはそーゆーものでしょと以上に言う必要はなかろう。また、認知に限界があるという問題ではない。ここはsvnseedsさんの現代国語的な読解ミスというと失礼かもしれないが…私はこう書いていた、つまり「私の知覚には限界がある…それはあたりまえだし、つまらない話です。そうではないのです。パスカルのように私の知性はそれを越えて畏怖に出会っているのです」、それは、知覚の限界を知性は越えるということだ。その問題だ。▼svnseedsさんは、知覚の限界を超えるという人間の知性の本性の意味の考察を、おそらく宗教的(反宗教的に)に断念し、それがおそらくある種のイデオロギーになっていると思われる。いわく、人間を越えた存在、畏怖すべき存在、そんなものを知りたくもない、と、そんなものは主観だ、と、信仰だと。しかし、それは違うのですよ。▼人間を越えた存在は、正当に考えて、信仰を排除して、ありえます。そして、存在とは、人間の知性・認識にとって、畏怖すべきものとして現れているのです。このことは、信仰ではなく、きちんと知を伸ばすことで理解でき、その美を味わうことができる、という意味でピアノの練習と同じなのです。』

#
kagami
『finalventさんはスピノザですね…。唯物論ではなくオントロギーをきちんと考えるということを、社会の大勢の人々が考えていってくれればよいのですが、資本主義と唯物主義の融合したものが世界の多数を制しているのが現代な訳でして…。(宗教もすでに融合体に一体化している)そういった世の中で発言してゆくのはとても大切で大きな意味あることだと思います。頑張って下さい。』

#
finalvent
『kagamiさん、ども。このあたりの考えというのは、たぶん、とても凡庸なんだろうと思うのですよ。自分の西洋文明に対する凡庸なありかたというか。スピノザはちょっと変わった哲学者でもあるけど、凡庸は凡庸というかオーソドックスなのでは(余談ですが、松岡がライプニッツ著作集を書いていましたが、ライプニッツもその意味で凡庸でしょう)。むしろ、日本近代はそうした西洋のアンチの部分だけ上澄みをすくってしまったのかな、と。余談ですが、西洋近代のもう一つのアンチは狂気というかセクトでしょうね。』

#
svnseeds
『うーん、そうやって決め付けられちゃうとお話にならないんですよ。ヴェルトフライハイトはどこに行っちゃってるんですかね?▼どうやらお互いの信念に大きな違いがあるようなので、僕はその違いがどこから来ているかを知りたくて議論しているつもりなんですが、finalventさんはどちらが正しいかを議論しようとしているように見える。僕は自分が何も知らないことを自覚しているので、より正しいと思われる認識があることが納得出来れば宗旨替えすることにやぶさかではないのですが、あれを知らない、これをわかってない、だから違う、と繰り返されるばかりでは議論を続けることの意義を見出せません。というか僕の定義ではこれは既に議論じゃありませんね。これ以上知識自慢ごっこにはお付き合いできません。▼といっておいて続けるのもアレなんですが、知覚と認知を厳密に使い分ける必要はないものと了解してましたがどこで間違っちゃったんでしょう。「私の思索では、実在を基本的に排除し、それをセンスデータ(簡単に知覚・認知と言ってもとりあえずいいです)としているわけです」とのことだったので。こういう場ですから厳密に定義してくれとは言いませんが、用語の使い分けが重要な意味を持つのであれば予め断っていただきたいものです。▼とレベルの低い揚げ足取りはおいといて、認知でも知覚でもいいんですが、僕が、それらに限界がある、ということで意味していたのは、「自己を越える未知なるもの」の存在を了解している、ということです。限界があるのだからそれを超えるなにものかが存在するのは当然だという理解です。それを「知覚の限界を知性は越えるということ」と表現することになんかしらの意味があるとは思えませんね。▼そしてその限界の先にあるものを認めたときに畏怖するかどうかは人によるでしょう。畏怖を感じていないのでそれを認めていない、という判断はnaiveに過ぎます。僕は畏怖ではなくある種の諦めを感じているわけですが、そこに優劣は存在しますか?▼また、言ってみれば、例のベルの不等式は、そのような理解を厳密な形式で述べただけです。決定的になったという点ではepochでしょうが、その点を除けば、一部の人間の昔からの認識/世界観の追認に過ぎない。彼らの内ではベルを待たずその認識は既に決定的だったわけですから。そうでなければ、つまりベルの不等式を知っているかどうかが真に重要なのだとすれば、彼の論文以前のこの分野における論考はすべて意味がないことになってしまう。これは馬鹿げた主張です。パスカルがベルの不等式を知っていたとは思えませんが、それが彼の偉大さに何か影響しますか?▼前後しますが、自然科学に関する話、僕が理解できないのは生の意志だとか服従だとかという大げさな言葉を何故使うんだろう、というところですよ。そこを除けばよくある相対主義者の主張と変わりませんから。根本的なところでは、そのような相対主義的主張ってなんか意味あんの、って疑問がありますが、まあこれは趣味の問題でしょう。科学者が悩んでるんだったらわかるんですけどね。▼更に自然科学を真似た社会科学は人間を支配するという意図をもって選択される、という主張に至っては完全に理解不能です。モデルの基礎が自然でなく人間になると何故そうなるのかさっぱりわかりません。▼ということで、相対主義的な主張を一方でされていながら、他方でどちらの主張が正しいかという議論をされている矛盾(アスペの実験結果を正しいとするのがfinalventさんの「生の意志」であるならば、それに依拠して他者を間違っていると判断することの正当性を担保するものは一体何になるのでしょうね)に無自覚でいらっしゃる限り、僕はここらで切り上げさせていただきます。ではでは。』

#
finalvent
『svnseedsさん、ども。論理的に理解すると(ユーモアでこう言うのですが)、svnseedsさんが「ここらで切り上げさせていただきます」が成立することは、その必要条件として、finalventが持論に「無自覚でいらっしゃる」ことになりそうですね。そうなのかもしれませんね。私としては、この件について特に付け加えることはありません。ラフに読まれているなという印象を持つのですが。でわでわ、と私も付け足して終わりにしましょう。』

■ ちょっと変なことを言う
 我ながら、ちょっと変なことを言ってみる。きっかけは、昨日コメントのsvnseedsさんの発言。

パスカルがベルの不等式を知っていたとは思えませんが、それが彼の偉大さに何か影響しますか?

 なるほど、そーだよね、と思う。

 で、そう思って、考えてみたのだが、我ながらちょっと変なことを言うのだが、影響するんじゃないだろうか。ベル不等式を知らないパスカルより、それを知っている私のほうが偉大なんじゃないだろうか、って、私に限らないのだが。

 人間の評価というは、当然、その歴史的な限界のなかで評価されなくてはならないし、そうした先人なくしては、私たちの知の財産もありえない。

 だ・が・な、それを継承しえたことは、やはり、現代人の知のほうが大きいのではないか?

 そして、そう認めていいのではないか。

 人類の知が高みに望んでいくことは、きちんと評価されていいだろう。

 むしろ、ベル不等式のような知が、ピアノの練習のように知の訓練によって知性によって獲得できることは、この現代の時間の宇宙的な知性に科せられた課題であるはずだ。

 もっとも、すべての人の課題ではない。当然ね。全ての人がピアニストになってラフマニノフを弾く必要はない。

 が、ラフマニノフの演奏がMIDIで模写されることでは、その音楽のパトスと意味は人間の肉に受肉(インカーネート)されない。それ(受肉)なくしては、私たちに、美と感動はない。 

■ さらにちょいと補足
 昨日コメントのsvnseedsさんの言葉だが、彼とかぎらず、そう思うだろうことは私も了解できる(つまり自覚的なんですよ)。

更に自然科学を真似た社会科学は人間を支配するという意図をもって選択される、という主張に至っては完全に理解不能です。モデルの基礎が自然でなく人間になると何故そうなるのかさっぱりわかりません。

 人は自然に向き合って無力なものだが、それを知によって克服してきた。自然に対応することは人間の本質である。簡単に言うが、これはオーソドックスに言ってもそういうこと。

 社会科学の対象が人間集団であることは、その集団を基本的にgovernする意図を秘めている、というのが超越的に聞こえるのだろうが、対象化とはそういうこと。

 これを「支配」という日本語で捕らえると違和感があるのだろう。まるで社会科学が悪のようなコノテーションを含むのだろうから。

 別の言い方をすれば、自然科学とは人間が自然に対するadaptationであり、そのinteractionによって人間は自然に対してaccommodateすることだ。

 社会科学は、人間集団をgovernする方策を提供するものであり、その方策と人間集団のinteractionによって、人間は人間集団に対してaccommodateする

 日本人にありがちな態度。っていうか、日本人の理系にありがちな態度。日本国内ではこれですんでしまう。めでたしめでたし。

 って、実はこういうのってbullshit!

 ちなみに、時間をかければわかる=一つの解に至ると思って書いているなら、知性劣化しすぎ。

 ベル不等式に限らないが、その意味を問うという精神の気力とその対決のありかた、つまり、解釈に自分の存在を賭けるというのがとても重要なのだ

 「事実はこうである。私はこう考える」というのが、できないのは、おばか。

March 27, 2004

戻ってくる語り

★何かを思い、何かを語る。それはあくまで自分の意見である。他者に強制はできない。でも自分の信念に基づいて「それは違う」と思った場合、どうすればいいのか。どうしようもないこの感情、正当性。とりあえず自分が存在を賭けるならば行動に移すべき。でもその行動とは何か?書くこと?語ること?説得すること?社会運動を行うこと?あらゆる情報は所詮他者から伝え聞いたものであり、本当のところはわからない。その上でなにを語りうるのか?どう行動しうるのか?

自分に直接かかわらない問題にまったく無関心を装うのは何か違う。でも、そもそもこれほど難しいのに、いったいどうしうるのだろう?とりあえずは広く関心を持っておくしかないのだろうか。

★最終的には「私は‥」という形でしか語りえない。でもただ単に自分が思うということではなく、もっと普遍性を含んだところの「私は‥」に最終的には回帰してくる。それはただ単に「結局は自分のことしか語り得ないから自分のことだけ語ればよい」という態度とは異なり、質の異なった「私は‥」の語りだ。とりあえずはこの方向性を目指すしかない。

★とにかく言葉の背後に存在するものの重みが感じられるかどうか。これに話し手が放つ言葉の「強度」が大きくかかわってくる。たとえ学者を目指すとしても、絶対にこれを忘れないこと。この「強度」を意識し生きてゆき、その地平に立っていること。

★文章のおいしいところだけの抜粋をもとに語るのではなく、比喩的にいえば、一冊の「ボリュームとして」語ること。これが欠けている。