>>2001年 東京大学(後期) 論文II(文III) 問題(pdf注意)

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  合格答案
 3枚の写真はただの写真ではない。なにかしら人の心を捉える力、感情を喚起する働きを持っている。なぜだろう。写真A、B、Cに共通するのは、眼にほかならない。眼は独特の精神性を持つ。眼は私の思考を喚起し、とりとめのない迷路へと引きずり込む。本論文では主題を「眼の持つ精神性」に設定し、いくつかの考察を行ってみたい。

 私とあなたが向かい合う。そのとき私はまず、あなたの眼を見るだろう。手足ではない、鼻でもない、口でもない。もちろん常に眼に視線を投げかけるわけではない。だが、はじめて二人が交差するとき、かならず視線と視線はぶつかり合う。逆にいえば、眼をのぞくことができなければ、私は本当にあなたと出会った心地がしない。Aの写真で、私は本当にAの写真の誰かに出会ったことになる。

 なぜだろう。不思議なことである。まず、私があなたの動きのある部分に注目するのは納得がいく。胴体はめったに動かないが、表情は刻一刻とその姿を変えている。動的な部分は注目を集める。では、なぜ口元や頬や鼻ではなく、眼がいちばん私のまなざしを惹きつけるのか。第1に、眼の可動域がもっとも広いからだろう。眼はその姿を隠すことすらできる。目元と呼ばれる、眼のまわりの部位と一体となって、さまざまな動きをみせてくれる。第2に、眼は他の部分と質感が圧倒的に異なるからだろう。人間の体の大部分は、皮膚で覆われている。日本人ならば肌色をしたそれが、顔においても、ほとんどすべてを占めている。しかし、眼は黒と白という珍しい色から成り立ち、なんといっても常に濡れている。液体にあふれめまぐるしく動き回る眼は、人間の体の中でひときわ異彩をはなっている。もっとも、手足が人間の体でもっとも大きく動くかもしれない。だが、眼ほど、繊細にその姿を変えながら動く器官はほかにない。

 私があなたと向かい合ったとき、私は少なからずあなたを支配しようとしている。支配という言葉は誤解を招くかもしれないが、私は、なにかしらあなたの次の動きを予測しようとしている。いいかえれば、あなたの心の動きを読み取ろうとしている。動物、とりわけ人間は、互いに相手がなにを思いどう行動するかを予測しながら生きている。眼は、非常に動的で繊細であるため、相手の心の動きを予測するのに、もっとも役立つ。だからこそ、私はあなたの眼を注意深く見つめ、見つめすぎていることを悟られないように、時にわざとまなざしを逸らしたりもする。

 だが、私はほんとうにあなたの心の動きを読み取っているのか。そうは思わない。ほとんどの場合、私は、自分の気持ちを相手の眼に投影しているのだろう。繊細で動的なあなたの眼は、私の思考や感情を豊かに喚起する。私はそれをあなたの眼に投影し、あなたの眼に、私の思考や感情を読み取っているのだ。あなたの眼は、私の考えを喚起するきっかけであり、それを映し出すスクリーンでもある。

 たとえばBの写真を見て、私は、食肉のために身動きもとれず飼育される牛の悲痛な叫びを感じた。特に、その牛の眼に、強く心を打たれた。これは、私の牛への感情が、牛の眼に集中的に投影されたためであろう。もし牛が奥の方を向いてその眼を見ることができなかったならば、私はこれほどまでに同情的な気持ちを喚起されることはなかっただろう。また、私は写真の出典に関する情報から、この牛の状態を知ることができたのだが、もしこの牛が食肉飼育のためにずっと監禁状態にあるということを知らなかったならば、これほど同情的な気持ちを喚起されることはなかったはずだ。牛に実際に感情が存在するのかどうかすら定かではない。つまり、私は牛の悲痛な気持ちをその眼に読み取ったのではなく、牛は悲痛なはずだという私の思い込み(思考)を、その眼に投影したのである。牛が悲しんでいる姿を、その写真は映しているのではない。牛の眼が、私の中に「牛は悲しんでいる」という気持ちを芽生えさせ、私はその気持ちを牛の眼に投影し、あたかもそれを牛の気持ちであるかのように感じてしまうのだ。

 同様の例は枚挙に暇がない。たとえば私たちは、アフリカの飢えに苦しむ子供たちへの募金を呼びかける、ユニセフの新聞広告をよく目にする。その広告は必ず、少年(少女)がこちらを「見つめる」仕掛けになっている。また、重大な嘘をつくと、私たちは相手の「眼を見て」しゃべることができない。相手の眼は、私自身の「嘘をついている」という気持ちを激しく喚起し、私は相手の眼にその気持ちを投影してしまい、あたかも相手に嘘を見抜かれているような気がするのである。あなたの眼は、私の心のうつし鏡だ。Cの写真の人形の眼は、その「死を想え(メメント・モリ)」という題によって、なにかしら死を見透かしたような雰囲気を持つようになる。私たちが死を想う際のうつし鏡となる。これが芸術のひとつの側面である。能という芸能に私は昔から大きな関心を抱いてきた。実際には眼を微動だにさせることなく、喜怒哀楽すべての感情を豊かに表現するなどということがどうして可能なのか、不思議でしょうがなかった。能は実に巧みに、眼が持つ精神的なメカニズムを利用している。おそらく能の面が持つ眼は、ひときわ私たちの感情を豊かに喚起するのだろう。そして喚起された気持ちを私たちは能の面、とりわけその眼に投影し、能の面は表情を、眼は動きを獲得する。同様な理由で、仏像の眼は、それを見つめる者の精神をふくよかに映し出す。何時間見ていても飽きないし、こちらの気持ちを見透かされたような、敬虔な気持ちになる。私の内なる超越者として、仏像は宗教性を獲得する。

 「私」は「他者の他者」だといわれることがよくある。これに「まなざし」の視点を持ち込むと、次のようにいえるだろう。他者のまなざしの中に「私」は存在し、まなざしの交差が人間にとっての世界を形造っている、と。







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