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お詫び・新年・新しいこと・blog
純潔とレッテル貼り・トイレ芸術★★★
歴史と生きる価値、殺された大使、死そのもの★★★
殺害写真のリアリティ、イラクの心理的距離。★★★
ひきだしの恋★★
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 2004/01/10(土) お詫び・新年・新しいこと・blog
明けましておめでとうございます。いろいろなことが重なって長らく更新を休んでいて、一部の人には大変迷惑をかけたし、楽しみにしてくれていた人にはホントごめんなさいと謝りたいです。ところで、@Gen.web*は2004年の新しい試みとして、Blogというインターネットツールを導入することにします。すでに知ってたり使ってる人も多いかもしれないけれど、これはホント今大流行していて、今年あたりに大ブレークが予想されてます。詳しいことについては、まだ自分も把握していないので、初歩の初歩から、徐々にblogなるものを明らかにしていきたいと思います。ごく簡単にblogとは何かについても、新しいページで紹介します。

とりあえず、日記形式のものは、 Diary-column-blog(Genxx.blog*)に移行します。なので、この新しいページは今までのこのページとほぼ同じ役割を果たすことになると思います。

ただ、この今のページには今までの過去ログだけじゃなく、またコラムを追加することになると思います。つまり、ここにはまとまった文章やコラムを載せていくことにします。それでは。


 2003/12/10(水) 純潔とレッテル貼り・トイレ芸術
ネットをふらふらと漂っていたら、目を疑うようなサイトに漂着した。それは日本青少年純潔運動本部。キャッチコピーとして、でかでかと「わたしたちは うつくしいこころと 汚れのない身体を いつまでも守りつづけます」と書いてある。さらに「純潔キャンディー」ときた。これほどツッコミどころ満載だと突っ込む気にすらならない。だけど、少しこのサイトについて調べてみると、どうやらこの団体が統一協会の系列だということがわかった。そこで、すんなりと納得してしまった。「ああ、統一協会(原理研)ね。やっぱおかしーわあそこ」という風に。人間は、このようにいろいろなものにラベル(レッテル)を貼りながら生きている。だから、生きるのが簡単になる。「ああ統一協会ね」という風に、それまで得体の知れなかったものに対して、深く考えることなく、瞬時に判断を下すことができる。ラベル貼りは生きるための知恵で、人間は適応的に(進化的に)これを身につけてきたのだろう。もしラベル(レッテル)貼りなしで生きたとしたら、頭はパンクして藻屑になってしまう。

でもラベル貼りは少し危険かもしれない。ラベル(レッテル)貼りと、差別は、紙一重だからだ。こんなことを考えたのは、きっと今日精神病について考えてたからなんだろうけれども。統合失調症(精神分裂病)、躁鬱、対人不安症など、さまざまな心の病があるといわれている。でもこれらは、昔から存在したわけじゃない。昔は、これらの病気に似たような症状を持つ人も、社会の中で、それなりに自らのポジションを得て暮らしていた。決して、「精神病院」なるものに隔離されていたわけじゃない。少なくとも、「病気」というものは、社会的に形成されたものだ、ということが大事だ。まわりが病気だ病気だと騒がなければ、本人が「自分は病気だ」ということを自覚することはない。

しかも「病気」という、一見科学的な装いをしたラベル(レッテル)は、信憑性が強いだけに、タチが悪い。本格的に導入されつつあるスクールカウンセリングだって、たとえば不登校の子に、本当は学校に問題がある場合でも、彼自身に問題があるとして、「心の病」というレッテルを貼り付け、問題解決のフリをしてしまう危険性と常に隣りあわせだ。またアメリカ軍の潜水艦によって沈没させられたえひめ丸の事件だって、怒りと悲しみに震えハワイに到着した日本側の遺族に対して、アメリカ軍は「カウンセラー」を準備して対応したらしい。「病気」というレッテルを貼られ、自分の怒り悲しみ憎しみという感情を抑えつけられることほど、ムカつくというか最悪なこともない。

「病気」は社会的なものだ。たとえば、朝に鏡で自分の姿を3分以上見る人は、自意識過剰という心の病である、という説がとつぜん力を持ったとしよう。鏡をよく見る人は、3年後には薬を処方されるようになり、10年後には入院を強いられるかもしれない。ナルシス病。ありえないともいえない。なにが病気で、なにが病気じゃないかを決定するのは、社会の中で有力となる言説(理論)とそれを産み出す権力なのだ。自分に引きつけて考えると、とても恐ろしい気分になる。

他人の心の底からの叫びに、簡単にラベル(レッテル)を貼るべきじゃない。いちど立ち止まって深く考えてみる必要がある。ラベル(レッテル)を貼ったほうが何百倍も人生を楽に過ごせるだけに、このことには常に注意しなくちゃならない。じゃあ、あえて「純潔宣言」に立ち止まって考えてみると、なにが見えてくる?それは次回のお楽しみに。

 

ふだんトイレに持ってるイメージ(既成概念=レッテル)を覆してくれたアート作品。日常のレッテルをどんどん崩してくれるのが芸術作品の面白み。左側のは、実際にぶっかけてきたけど、悪くなかった‥笑 いずれもMori-art-museum所収



 2003/12/06(土) 歴史と生きる価値、殺された大使、死そのもの
12/01のコラムに関連するけど、亡くなった外交官の一人(奥克彦大使)の遺稿(イラク便り)にアクセスが殺到しているらしい。これを読むと、いったいどういう人間がこの世から30発の弾丸によって消えていったのかということがよくわかる。この文章はいわば「生の痕跡」だ。人はこの「生の痕跡」を読んで、彼の人となりを知る。彼の具体的イメージがわく。そしてそんな彼が突然殺害されたことに対して、悲しみや怒りや同情といった感情を持つ。あるいは、彼には妻とお腹の中の子供がいたということを知り、ますます悲しみを深める。こうして、彼の死という出来事は、それぞれの心の中でストーリー化される。いいかえれば、物語化される。

彼の「生の痕跡」は、それぞれの心の中に刻み込まれる。心の中に刻み込まれた彼を、「本」という、死後も残るメディアにまとめる人があらわれるかもしれない。あるいは映画になるかもしれない。人間というものは、こうして、自分が生きた時代だけではなく、後々の時代でも生き続けることができる。

ナポレオンのように、全世界中の人間の心の片隅で生き続けている人間もいれば、俺の祖父の金男みたいに、親族の間でずっと語り継がれていく人間もいる。「死」をきっかけに、ある人物がストーリー化される。このストーリーは、さまざまに形を変えながら、歴史をずっと生き続けてゆく。ずっと、ずっと。もちろん、いくつかはどこかで消滅しながら。多くの人は、自分の死後も、自分がストーリーとして歴史を生き続けてゆくことを望んでいるはずだ。それも、少々大げさかもしれないけれど坂本竜馬みたいに、大きなストーリーとして、たくさんの人の心の中で生き続けたいと願っているはずだ。なにか大きなことを成し遂げたいという野望。高校のころに「マルクスを超えてやるぜ」なんてうそぶいてた自分が懐かしいけど、心のどこかでは、今でもまだそんな類の野望がくすぶっている。

でも、母が語った言葉にはっとしたこともある。うちの親父は脳の大動脈瘤→2年後(現在)は白血病と重病を繰り返しているけど、そんな父を、昔は自由奔放だった母は、ずっと支えてきた。その経験をもって、語った言葉。「生きている間に、誰か一人の生きがいにここまでなれるってことは、すごいことなのかもしれないよ。それだけでも、すごく生きた価値があったのかもしれない」

たとえば試験。たとえばプロジェクト。たとえば、ずっと思い描いていた将来の夢。ひとつのことに挫折したって、それですべてが終わりじゃない。生きる価値、ってもんは、案外自分が予想すらしていなかったところから転がり込んでくるのかもしれない。人生はおそらく、自分がイメージしているより、ずっと寛容だ。だから、冗談だとは思うけれど死ぬなよ!(某友達へ)

▼人の死が「ストーリー化」されると、「死」そのものが持つ圧倒的な暴力性が隠されてしまう。この外交官の死だって、「美談」「英雄談」として語られる危険性を十分に持っている。だからこそ、その前に「死」そのものの圧倒的な存在に注意を向けるために、12/01のコラムで、死体の写真にリンクを張ったのでした。「死」と向き合う、ということは、ただ「死」をストーリー化するということとは違う、と自分は思っています。それだけにとても難しい。ちなみに、イラクの問題について考えるとき、テロ国家イスラエルへの視点も絶対に忘れることはできないでしょう。

    
一方、六本木けやき坂は、悲しいまでに穏やかな、蒼白い冬でした


 2003/12/01(月) 殺害写真のリアリティ、イラクの心理的距離。
アルカイダの東京テロ宣言が、ついこのあいだ報じられた。それでも、まだまだ心の底から実感がわかない。頭ではなんとなく理解できても、肉体というか、深い自分の感覚として、日本が、アメリカを中心とした「テロ戦争」という名の殺し合い・闘争に深くかかわっているということを考えることはない。なぜだろう。おそらく、地理的にイラクが遠いということで安心してしまっている、というのはある。もし北朝鮮や韓国、中国などで同様の事件が起きた場合、世論の反応はいったいどうなるだろう。さて。

そのイラクでもついに日本人外交官が殺害された(ニュース)。それでもまだまたイラクは遠い。地理的にも、心理的にも彼方にある。今ここに、アラブ系のメディアは報じているけど、日本のマスコミは自主規制していると思われる写真がある。殺害された外交官の死体写真だ。遺族の方のことを考えると、日本のマスコミの自主規制もある程度妥当な判断だとも思う。ただ、ひとつの選択肢として、この写真をみて真剣にイラク問題・アメリカ主導の「テロ戦争」・それに対する自分のスタンスについて考えるのが、殺害された外交官の方への真摯な向き合いかたであるとも思う。

その写真(苦手な方は見ないでください)


 2003/11/28(金) ひきだしの恋
女をときめかせるには、あたらしいひきだしを開いてやることさ――――
昔なんかの小説で読んだこの台詞は、いつも自分の心に重くのしかかっている。いや、いいかげんな性格だからこそ、言い聞かせようと一応もがいている。

人はいろんなひきだしを持って生きている。自分で開いた、あるいは誰かに開かれたひきだしの数だけ、人生の色合いが鮮やかになる。開き開かれたひきだしのひとつひとつに、あたらしい世界が詰まっている。ものを指で数えることしか知らなかった小僧が、父に数字を教わった。ものは無限に拡がった。夏の海しか知らなかった少年が、友達にスノボを教わった。冬の雪原と青空がとつぜん彼の目の前にひらけた。地方で生まれ育った学生が、上京して映画館に入り浸った。芸術の重く陶酔させるような世界が彼を襲った。

人はいろんなひきだしを持って生きている。まだ開かれたことのない、たくさんのひきだしを身に着けて、ひとつでも多くのひきだしを開こうともがきながら、あるいは自分じゃ開くことのできないないひきだしが誰かによって開かれることを願いながら、毎日を生きている。

きっと、「恋」ってものもこの「ひきだし」と関係してる。自分が相手にとって一番大切な存在だと認めてくれる、その人。そして、自分にとってもその人が一番大切で、生きがいの大部分になってくれる、その人。「その人の存在」というひきだしは、たぶん、一番「大きなひきだし」。こっぴどく振られて、その「大きなひきだし」を引っこ抜かれて、長いあいだ心が空洞だった。失恋した後、いろんな代わりのひきだしがやってくるけど、サイズが合わなかったり、材質が違ったり、見た目がイマイチだったり、ハメたところでしっくりこなかったり‥

でも、ひきだしはそれだけじゃない。そのことを忘れたら腐ってしまう。「大きなひきだし」を恋人同士で引きあいっこして、それだけに満足してると、ホントに腐る。不思議だ。恋ってのはたぶん、お互いに新しいひきだしを次々開きあっているときに、うまくいく。「その人」に触発されて今まで見なかった映画を観たり、自分の生き方を見直したり。背伸びして痛い目に会って。でも、この「相手(その人)の新しいひきだしを開く」ってのは、簡単なことじゃない、めんどい、しんどい。はじめのうちは、自分がただ存在するだけで、相手の「大きなひきだし」や「新しいひきだし」をがしっと開けるからいいけど、しばらくたってマンネリ化してくると、意識的にやらないかぎり、相手の新たなひきだしを開くことはできない。

友情と愛情の違いについて、たしかアリストテレスはこういった。友情は外に開かれゆく関係性だが愛情は内側へと閉じこもる関係性である、と。閉じられた関係の中で、相手との恋人関係という「大きなひきだし」に甘えてしまう。関係が腐る。「大きなひきだし」だけを守ることに執着して、相手を束縛ばっかして、あるいは相手に要求ばっかして、結局なにも与えていない(=あたらしいひきだしを開いていない)自分に気づく。「俺はもうなにもおまえに与えれないのか‥」 会話も、自分たちの関係についてのトークばっかになったり。気づいたときには、もう遅い。相手はすでに腐った関係に嫌気がさして「大きなひきだし」すらもはや機能しなくなってる。

▼自分はこの過ちをなんべんも繰り返してきて、なんべんも失いたくないものを失ってきた。相手が「大きなひきだし」を見限ったにせよ、自分がそれを過去のものにしようとしたにせよ、どっちも結局おんなじことなんだろう。それは、ひとつの関係が損なわれるってこと。まぁ、そうやって次に進んでくんですけれどもね。未来があるから人は生き続けることができる。えらいスウィートな文を編んじまったな。ネットラジオのXmasソングを聴いてたら、イヴに振られた記憶がよみがえってきて、つい指先がすべってしまって。まぁ、ままよ‥


Xmasぱーちーの季節


 2003/11/13(木) 大学生活。将来。けじめ。
何年前だろう?東京で一人暮らしをはじめて、一から生活を構築してた。年上の姉さまにそそのかされてしょっぱい格好で銀座の街を歩いてみたり、「裏」を探して表原宿で路頭に迷ったり。新歓期で無茶やって、でもいま考えると痛々しいほど裸の王様。やつれた顔に気づいた。栄養取らなきゃと張り切った。馬鹿みたいな食費。東急ストア冷凍食品4割引で場しのいだ。いや、すぐに白米しか食わなくなった。朝は茶碗によそって「ごはん」、夜は皿に盛り付けて「ライス」。おかずは醤油。糞みたいな一日を過ごし、白米にすら感じた罪悪感。古着屋にしか行かなくなった。カバーオールを着てそのまんまピエロになった。学割につられてSHIMA原宿で髪を切るようになった。隣でカラーしてるヤツがいた。はじめて芸能人と1メートル以内に接近した。でもそれは品川庄司の庄司だった。時間にルーズな性格はとどまるところを知らず、破裂するような酔い死ぬような頭痛吐き気の中で、ひとつひとつ自分の格好つけを削ぎ落としていくと、酒の空き瓶女のヘアピン煙草の燃えかすしか残ってなかった。ネタっぽい?しょせんネタでしかない日々を送っていた。

あれから幾日が過ぎたのだろう。およそ1100日が流れていった、26400時間、158万4000分。自分の中に、なにが、なにが、残ったのだろう。

高3の最期、心にあったのは、大学で何かを残そうという決意、硬い芯みたいなものをつかめるという自信。あれこれ思い描いた。いろんなものを見下して、ニヤついては、自分の将来に惚れ惚れした。大学は1460日を売ってくれた。授業料と引き換えに、自由と責任の時間をいただいた。大学、おそらくそれは時間を売ってくれるところ。

あれから幾日が過ぎたのだろう。およそ1100日が流れていった。のこりは、およそ500日、12000時間、72万分。もう2/3は使い果たした。これから何ができるのかはわからない。でもまだ俺は信じてる。

▼この拙い文章はなんだ?と思われたかもしれません。でも、いま、とにかく焦ってる。まわりを見渡せば、就職活動をするやつ、司法試験にトライしてるやつ、公務員試験の勉強に励んでるやつ。すり減るシャープペンの芯一本一本が将来の生活に直結してる。ひるがえって自分はどうだろう。院を目指すということ。本一冊が、いったい何につながる?見えない。ほんとうに先が見えない。

「夢を実現するにはどうすればいいか知ってるかい?」――――「目を覚ますことさ」

こんな臭すぎる台詞が重くのしかかる、すべては自己管理、自己責任、自分の時間の使い方、けじめの問題。大学から買った時間の2/3は過ぎ去った。なにも、いかなることも、もう先延ばしにはできない。脳波を測定しながら、単調な波形をモニターにぼんやりと眺めながら、そんなことを考えた。いや、本当にこれがすべて。


 2003/11/04 (火) 家族を刺した男、その女のHP
▼両親ふくめ家族3人を殺傷した19歳の男が逮捕され、続いてその男の彼女(16歳の女)逮捕された。当事者以外、誰にとっても所詮は対岸の火事。口をあけて興味本位でニュースを見つめるけど、あくまでただの一事件。そんなとき、16歳の女のHPをネット上で見つけた。不謹慎な言い方をすれば、ニュースで扱われる(ある程度の)客観的世界とはべつの主観的世界からこの事件をながめるまたとないチャンス。事件当日の日記、最後に残された彼女の言葉は、「いってきます」

事件について
消された女のHPのミラーサイト

あとでゆっくり目を通してみようと思う。


 2003/10/29 (水) ハロウィン、知的雪かき
▼硬い話題で埋め尽くされたHPに疲れてきたので、今日からここは日記風味でけっこう垂れ流し的に日常を綴ろうと思います。

▽もうすぐハロウィンだ。たいていの人は軽く流すが、考えようによってはこれほど面白いイベントもない。誰もがなにか普段の自分以外のものを演じることが許された一日だから。かぼちゃは、自分からの解放の象徴的シンボルに見えてくる。なにも凝った衣装を買う必要なんかない。昔の制服を取り出したり、普段着ないスーツを着て、普段行かないところへ行ってみたりする。それで、なにか衣装に応じた役を演じ切ってみれば楽しい。気まずく知り合いに出会っても、「ハロウィンだから!」のヒトコトで済む。そう、ハロウィンとは変身願望の免罪符なのでした。バイト先ではやれミニスカポリスだ看護婦だ、って‥ラブホでやれよ的な願望の一般公開が許されることへのフィーバー。そんな自分は、さてさて‥

▼「知的雪かき」という言葉。たしか村上春樹の小説のどっかに出てきたと思うんだけど、最近の自分にすごくしっくりとくる。世の中、自分にとって意味があると感じられることばかりやっていれば良いわけではない。たとえば学生として、卒業のために、やりたくない・興味のもてない翻訳や課題をこなさなければならない。自分にとっては、心理学の視覚や脳に関する細かい研究論文の講読プレゼンテーションだったり。「知的=頭を使った」「雪かき=馬鹿らしいほどの徒労だけど、前に進むためにどかさなきゃいけないものをどかす作業」。ポイントは、どかしても、どかしても、次から次へと降り積もってきて、それに忙殺されるということ――雪かきの体力を蓄えとけば後々役に立つこともあるだろうと信じて。





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