移転しました。
RSSリーダの設定など手間をおかけして申し訳ありませんが、よろしければ移転先のhttp://blog.genxx.com/もよろしくお願い申し上げます。このBlogよりは柔らかい感じで、短く、端的に、「ひんぱんに」更新しながら書いていくつもりです。
お知らせ
最近はエントリーが簡単なのでDiaryの方にもっぱら書いています。ふと気まぐれで久々にこのBlogをご覧になって更新されていないことにがっかりされた方は、もし良ければ、そちらの方をチラ見してやってくださいな。
株をめぐる言説の整理
ホリエモンや日銀福井総裁や村上世彰氏に対するバッシングは常軌を逸して凄まじかったが、一部のバッシングの基底には、『「マジメに働かず」株(ファンドへの投資)によって儲けるなんて許せねー』的な嫌悪感が見え隠れしていた。株やってる人間ってどーなのよ。
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さて、株取引(に絞って話をするが)をやっている人間は、この「おまえら社会的にろくでもないことしやがって」という批判に対して、大まかに3点から反論する傾向があると思う。以下に詳しく述べていくが、第1の反論は、株式投資という仕組みの社会的意義を説く。第2の反論は、株式投資のあるべき姿を説く。そして第3の反論は、たとえデイトレードであれ、株式投資という行為そのものが無条件に社会に貢献するのだと説く。
第1の反論は、株式投資こそが唯一大きなプラスサムの価値創造を推進する手段だ、というもの。経済を発展させるためには、不確実な(成功するかどうかわからない)事業を立ち上げ、それに誰かが投資することが不可欠だ。冒険無くしては大きなブレークスルーが生まれないからだ。その不確実な事業に対して、多くの人が株式投資を行うことによって、元本割れリスク(不確実性)の引き受け手を広く社会に分散させることができる。この観点からは、株取引を行う人たちが、無条件に肯定されるといえるだろう。なぜなら、彼(女)らは、経済発展のためのリスクを引き受けた、勇敢な戦士たちなのだから。
「資本主義の最大の強みは、普通株という有限責任の投資対象を通じて、国民が全員参加してリスクを分担し、結果の保証されない新しい経済活動を支援するところにある。わが国では資金調達といえば銀行借り入れを、資金運用といえば預金や国債、保険や年金などの確定利付き商品を思い浮かべる。古今東西、国家主導経済においては銀行中心の確定利付き型金融システムが主流であり、日本はその代表的な国であったから、それも無理からぬことである。これに対して、リスクを取る行為を組織的に支えるために、普通株という有限なリスクの投資対象を広く国民の間に分散して持ってもらうという考え方は、大航海時代から18世紀イギリスの産業革命を契機とする、資本主義経済に固有の一大発明なのである。結果のわかっているローリスク事業、あるいは結果の保証されているノーリスク事業なら、銀行借り入れや財政資金によっても推進することは可能であろう。しかし、結果が不確実な新しい事業の推進は、まずリスク資本が調達され、投入されるところから価値創造が始まるのである。(『証券投資入門』)
第2の反論は、「株式市場は、価値創造の担い手である企業のパフォーマンスに最終的な評価を下す、資本主義経済の最高裁判所だから必要なんだぜ」というもの。株取引を行うことは「最高裁判所」で裁くことに似ているというこの主張は、当然のことながら、株取引に規範(裁き方のルール)が必要なことを説く。株式は、国民の大切なリスク資本の活用をプロの経営者に委ねることを通じて、リスクを全員で負担しつつプラスサムの経済的価値の創出を推進することを目的としていたが、その目的を達成できるかどうかは、(1)株主の利益に奉仕する経営者が率いる企業と、(2)企業のパフォーマンスを適切にモニタリングし、株価によって評価する投資家(裁判官)という、2つのグループの共同作業に依存している。投資家が企業の業績を適切に評価して正しく株価水準を設定できなければ、企業や産業に資源や資本がふさわしくない条件で再配分され、ひいては国民全体の大きな経済的損失につながる、というわけだ。株をやる人間は資本主義の裁判官という役割を担っており、それゆえに自分たちが企業を育てているのだという自覚を持ち、規範(株価によって企業の業績を適切に評価し企業を育てろという命令)に従え、というわけだ。
この観点からは、株取引を行う人たちが、条件付きで肯定されるといえるだろう。決算書を読み、現代投資理論に基づいて適性株価水準を推測し、割安株を買い割高株を売る(つまりはファンダメンタル分析をきちっと行う)者たちは肯定される。企業を成長に導く投資を心がける者は受容される。中・長期的投資が好ましいとされる。他方、短期投資(デイトレード)を行う人などは、株価を乱高下させる悪者とされる。投資は善、投機はは悪とされる。
第3の反論は、株取引という行為そのものを、そして何よりもデイトレードなどの投機行為そのものを根本から肯定する。「俺たちは株を頻繁に売ったり買ったりすることによって市場に流動性を提供しているんだ。あなたが株を売りたいときに売れない、買いたいときに買えない、じゃ困るだろ?市場に流動性を確保することによって、経済学的な意味で、効率性が担保され、経済発展に貢献しているんだ」というもの。この観点からは、デイトレーダーを含め、あらゆる株取引を行う人たちが肯定されるだろう。たとえば、株ではないが為替市場について、『生き残りのディーリング』の著者、矢口新はこう述べる。
では、市場から投機筋を一掃すればどうなるか論じてみましょう。為替市場を例にすると、市場での取引は、財・サービスの輸出入に絡む実需と、旅行者などの外貨、邦貨の手当、資産の裏付けのある投資とその収益の送金などに限られてしまうでしょう。出来高は今の数パーセントとなり、売りたい人は買いたい人が現れるまで待ち続けねばなりません。(中略)日本のように貿易が大幅黒字の国では、外貨を売りたい人が行列を作って、買い手を待つことになります。しかも、この行列は日増しに長くなるのです。(中略)売れない市場に買いを入れる投資家はいません。投資家がもっとも恐れるのは、流動性の欠如だからです。(中略)このように、投機筋の市場における役割は非常に大きいのです。投機筋あっての市場ともいえるでしょう。誰かがリスクを取り、踏みこたえることによって、実需の偏りの緩衝材となり、過度の変動を押さえるのです。」
以上、株取引を擁護する代表的な3つの言説を見てきたのだが、どうだろうか。長期投資家は三位一体の王国に君臨しているため、批判を受けにくい。他方、デイトレーダーは、株式投資の「規範性」(第2の反論)を蔑ろにしていると考えられるため、批判の矢面に立ちやすい。「株をやっている人間、ましてや大儲けしている人間は嫌い」と感じるのは自由だが、彼(女)らを批判する場合、何に対して嫌悪感を抱いているのか、改めて自己の意見の内実を整理する必要があるように思う。彼(女)らは、資本主義の枠内では、まぎれもなく社会的な貢献をし、公共性に資している。彼らが大儲けしたのは、その分リスクを引き受けたからだ。1億円儲けるかわりに、1億円の資産を失う、あるいは1億円の借金を背負うリスクを黙諾していたのだ。竹原慎二のボコボコ相談室が宣うがごとく。汗水垂らして働いた資金を失う、あるいは借金を背負うリスクを引き受けた分だけ儲けたのであり、その意味で株取引は、自らの労働そのものを賭ける行為といえるだろう。彼(女)らを批判する契機が存在するとすれば、それは脱資本主義的な言説の中にしか存在しえないだろう。マルクス的な、資本の自己増殖性を糾弾する視座以外に、どのような言説がありうるのだろうか。
#現代投資理論関係のおすすめ書籍をいくつか紹介します。まず、『証券投資論』は投資アナリスト試験のバイブルと呼ばれ広く親しまれていますが、少し難解なので、初心者には『証券投資入門』をおすすめします。また、現代投資理論の根底にあるファイナンスを難しい数式抜きに明快に理解させてくれる好著として、『道具としてのファイナンス』は絶対的にお勧め。最後に、企業の決算書を読むための基礎を身につける本として、『MBA財務会計』はきわめて明快に論じてある快著。本当にわかりやすいので、ぜひ。
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「グローバリゼーション」の輪郭線part.1
「グローバリゼーション」という語がキーワードになったのは、1996年の主要国首脳会議(リヨン・サミット)からだと言われる。「暴走する世界」が生み出す当惑と不安を象徴的に示す、多義的な言葉なのだろう。これまで専門的な文献を追ったことがなかったため、一初心者として、読んだものをメモし、輪郭線を僅かばかりでもはっきりさせてみたい。素人の方には、何らかの参考になるかとも思う。
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資本の移動と人の移動(=移民)、これらは国民国家がコントロールしきれない二つの大きな課題だ。先進国はここ数十年間、市場主義にもとづき、資本・もの・情報などの国境を越えた自由な移動を推進してきた。ところが、人間(労働力商品)の流入は可能な限り統制され制限されてきた。モノのフローは奨励される。でも人のフローは当惑される。さて、このことを念頭において、第1回目は、今日のグローバリゼーション研究の理論的枠組みを提示したといわれるサスキア・サッセンの思索を見ていこう。「グローバリゼーション」の経済的側面について。主にアメリカについての分析。
先進国の製造業は、本国における高い労働コストと厳しい規制を逃れるために、生産拠点を途上国に移転するようになった。途上国の政府もまた免税特権などで企業誘致につとめてきた。移転した企業は、現地市場向けの完成品を生産するのではなく、本国から部品を輸入し、それを加工した後に輸出する、オフ・ショア生産を行う。こうして現地工場は、資本投資国を頂点とする生産ネットワークに組み込まれていく。
現地の工場で生じた労働需要は、農村社会から若年労働力を吸い上げることによってまかなわれた。労働力を失った農村社会の生活は危機に陥った。また、現地工場では主として若年女性が雇用され、男性労働者の大量失業が生じたが、企業が海外生産拠点(工場)を移転する度に、雇用されていた女性労働者も失業した。こうして生産のグローバル化に伴って、途上国の内部に膨大な移民予備軍が累積されていった。重要なのは、先進国企業が途上国に展開する際、(先進国で享受されている)大量消費的な文化や生活様式を浸透させていったということだ。消費生活に一度慣れてしまえば、もう後戻りはできない。したがって、途上国の中心都市に、「もはや帰るべき故郷をもたない」失業者が大量に生じ、移民の潜在的予備軍となった。
以上が途上国におけるプッシュ(押し出し)要因だが、サッセンの洞察は、先進国側の移民を引きつけるプル(吸引)要因を見いだしたことにあった。企業の生産部門は海外に移転したが、他方で、(IT技術の飛躍的発展もあり)多国籍化した企業の管理中枢や金融部門は特定の大都市に集中していった。この特定の大都市を「世界都市(global city)」とサッセンは名付けた。「世界都市」では、従来型の産業構造の主役であった中所得層のホワイトカラーとブルーカラーが減少し、高収入を得る専門的技能職従事者と、サービス業や製造業に従事する膨大な低賃金労働者とに分化していった。「世界都市」はビルの清掃・管理などに従事する膨大なサービス労働者に対する需要を生み出し、また高所得者層の増大は、家政婦、ベビーシッター、商品の配送など多種多様なサービス労働への需要を生み出した。これら底辺の職種に、先進国の労働者はなかなかつきたがらない。これを担ったのが移民労働者たちであった。無権利で従順な移民労働者によってしか充たされないような低賃金労働に対する需要が、大量の移民を先進国に引きつけた、プル(吸引)要因であった。
アメリカでは1960年代に公民権運動や女性解放運動などが発展した結果として、従来底辺労働力を構成していた、黒人や諸マイノリティ集団、女性などの社会的地位や所得が上昇した。この結果、家事、育児をはじめとする家庭内サービス労働に対する膨大な需要が生まれ、この需要に応えたのは(不法な)移民女性たちだった。こうして同一ジェンダー内部のグローバルな格差構造が作られていった。
先進国は両義的な役割を果たしてきたといえる。一方で金融・生産・輸出入の自由化を途上国に要求し、他方で移民の流入に関しては厳格な規制と管理を行ってきたのだ。もちろん現実的には、先進国の内部に移民労働に対する需要が存在する以上、政府の規制をかいくぐって「不法に」流入する入国者の流れを阻止するのは難しい。注意すべきは、政府が国境を管理することによって入国者に刻印される「合法移民」「不法移民」という烙印があればこそ、経営者はかれらを先進国本国の労働者よりも劣悪な労働条件、安い給与水準によって働かせることができ、かつ人権を侵害する不当な待遇に対する外国人労働者の抵抗を封じることができたということだ。先進国は途上国に移民予備軍を作り、また先進国内部に移民を引き寄せるプル要因を作ったのだが、移民流入は制限することによって、移民の劣悪な労働条件を正当化してきたのだ。国家は国内における移民の差別化の機構として、資本の利害と共犯関係にある。
もっとも、先進国の底辺労働に従事している移民労働者は、移民するすべすら持たない故郷の労働者よりは恵まれた地位にあるといえる。現代における移民現象は、グローバルな労働力移動の性格を持っている。第1に、あらゆる途上国内部で生じている農村から都市へ向かう人口移動を底流としつつ、第2に、途上国内部における低所得地域から高所得地域への移動(たとえば貧しい中東諸国から豊かな石油産出国への移民流入)が世界各地域で展開していることを背景として、第3に、それらの最上層に途上国から先進国へと向かう移民の流れが存在するのだ。南北という単純な二分法はもはや通用しない。
資本主義のグローバルな展開に規定された労働力のグローバルな移動と格差の構造を考えると、国民国家の法制度に依拠した支援策の限界が明らかになる。では、どうすれば良いのか。この事態をどのように考えてゆけばよいのか。それについてのメモは、またの機会に。なお、上記は『グローバリゼーションとは何か』、『グローバリゼーションの時代』に詳しいが、基本的に『哲学』第55号pp.4-19「グローバリゼーションという現実」(平子友長)を参考にメモさせていただいた。筆者独自の論考は含まれていない。
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信頼についてpart.1
卒論に関連して、リスクに関する意識調査の質問紙を大量にばらまいた。感想欄に寄せられたコメントの多くは、「誰を(どの意見を)信用すればよいのか分からない」と訴えかけていた。信じること、ないし信頼。この信頼の重要性は、専門分化した現代社会において、なおさら重要だといえよう。本日は、信頼に関する心理学的知見を軽く概観してみたい。あなたが日常生活で信用を勝ち取るためのヒントも詰まっているはず。
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これまで信頼は、メッセージの送り手の信憑性(credibility)の問題として扱われてきた。簡単にいえば、あなたがわたしに情報を与えてくれる時、あなたの発言にどれくらい信憑性があるのかという問題だ。この信憑性研究の重要な知見は、同じメッセージ内容であっても、送り手の「説得意図のなさ」と「専門性」が高い場合に説得効果が高くなる、というものだった。「説得意図のなさ」とは、相手(メッセージの送り手)の「意図への期待」である。たとえば、「原子力発電所は安全ですよ」と東京電力の職員が発言した場合、わたしたちは抵抗感を抱くだろう。なぜなら東電職員と原子力発電所推進は利害関係で結びついているからだ。つまり、メッセージの送り手の発言が、メッセージの送り手の利害には関係しない場合や、送り手が誠実な人間であると見なされた場合、さらに、送り手が他人の意見に影響を与えようとしていないと見なされた場合に、「信頼性」は高くなる。一方、「専門性」とは、メッセージの送り手の「能力への期待」である。これはいわずもがな、ただの一般市民であるわたしが「原発は安全だ」と発言するよりも、東大工学部教授の原子力専門家が「原発は安全だ」と述べた方が、その発言の信憑性が高いということだ。
信頼をめぐって多大な業績をあげている心理学者・山岸俊男は、このうち「意図への期待」がどのように構成されているかを、「安心」と(カギカッコ付きの)「信頼」を区分することによって、明らかにした。「安心」は、リスク管理者が住民/消費者をだましたりすると、リスク管理者の首を絞めることになると見なされることで生まれてくる。「針千本マシン」がわかりやすい例なのだが、嘘をついたとたんに千本の針がノドに送り込まれる針千本マシンを内蔵している人間は、嘘をつかないだろう。リスク管理者が不正を行ったならば直ちに摘発されリスク管理組織全員の首が飛ぶというシステムがあったならば、針千本マシンと同じ機能を発揮するだろう。懲戒制度や情報開示制度がこの方向の延長線上にあるシステムだ。すなわち「安心」とは、相手にとっての自己利益への評価に基づく意図への期待である。
他方、(カギカッコ付きの)「信頼」とは、たとえば相手の人格の誠実さや自分に対する感情に基づいて相手の行動意図を評価する場合である。「あの人は立派な人だから騙したりしないだろう」「わたしのことを好きなようだからひどい目にあわしたりしないだろう」、などなど。すなわち「信頼」とは、相手の誠実さや自分との関係評価に基づく意図への期待である。

わたしたちは日常生活で漠然と「なんかうさんくさいだよな」「官僚は信用できねぇ」などと感じているが、上記の図式を用いて広義の信頼を整理すれば、より生産的に相手に向き合うことができるだろう。なんとなく感じていることを意識的に整理する作業は、他者とコミュニケートする上で、決定的に重要だといえる。
たとえば、電力会社はさかんに原子力発電所の安全性を(科学的データを用いながら)訴えかけているが、わたしたちが彼らのいうことを一向に信用できないのは、彼らの「能力への期待」(専門性への期待)が満たされないからではなく、「意図への期待」が満たされないからだろう(「隠蔽工作をしているのではないか」「不都合なデータは隠されているのではないか」)。リスクをめぐるコミュニケーションが決定的にすれ違っているのだ。では何を求めればよいのかといえば、「安心」(「情報を限りなく透明に公開しろ」「問題が生じたら直ちに関係者の首が吹っ飛ぶようにしろ」「直接的な利害関係を含まない第三者に調査させろ」)であったり、「信用」(「どんな人間が管理運営しているのか顔を明らかにしろ」「もっと誠実にわたしたちに説明を行う機会を設定しろ」)であったりする。また、最近では朝日新聞が信頼を損なうこと著しいが、彼らに感じる「うさんくささ」の内実は、「能力への期待」に対する疑問(本当に裏をきちんと取って報道しているのか)もさることながら、それ以上に「意図への期待」に対する疑問(「中国様とどんなつながりがあるんだよ」「アカヒじゃないっすか」)であったりする。両者は分けて議論すべきだし、一緒くたに「朝日ウザイ」では、何も生まれない。もし記者が顔写真付きで記事を掲載するならば、「安心」と「信頼」が同時に満たされるだろう。
よりミクロなレベルに落として、日常生活でわたしがあなたの信用を勝ち取ろうとする際には、以下の点をアピールしよう。1.わたしには能力(専門性)があること、2.わたしはわたしの利害関係から発話しているのではないこと、3.わたしの発話が嘘であるならばわたし自身が非常に困った状況に追い込まれること、4.わたしは誠実な人間でありあなたとの関係がわたしにとって非常に重要であること。また、相手がわたしを疑い続ける場合には、上記の4項目のどれが不十分であるのかを十分考察し、それぞれの特性に応じた対策を立てた上で相手とコミュニケートしよう。4項目それぞれに対策が異なる点が決定的に重要なのだ。信頼コミュニケーションのすれ違いを減らすだけで、随分と風通しは良くなるだろう。
説得しようとする意図が見えたときにコミュニケーションは失敗する。なんとも皮肉な話ではある。「(科学も含め)あらゆる命題は政治的である」という洞察が、ポジショントーク(論者がどのような政治的位置に立っているのかについての言説)全盛の現代を生み出した。ところで、2chは実にお気楽な世界である。そもそも「名無しさん」なのだから、「信頼」は端から問題とならない。「安心」(IPを晒せや/トリップ付けろやゴルァ)もたまには問われるのだが、得てして「相手の能力への期待」(面白いか/議論が鋭いか)のみが問題となり殺伐とする。信頼コミュニケーションは実にヘビーで重苦しいものであり、匿名性は重苦しさからの解放であったのだが、そこから生きがいを感じるのは難しい。一方、全盛期を迎えているmixiでは、「相手の能力への期待」があまり問題とならない。「安心」と「信頼」に守られて、心地よいコミュニケーションを堪能することができる。広義の信頼は、2chとmixi両者の要素を含んでいるのだ。どちらが欠けても、わたしたちは満足できないし、そもそもコミュニケーションとはそういうものなのだろう。なお、信頼をめぐる心理学的研究を詳しく知りたい方は、以下の2冊をチェックしてください。
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柴田元幸が日本の現代小説を見立てると
先日、日本随一のセンスを誇る翻訳家・柴田元幸が、日本とアメリカの現代小説の違いについて語っていた。門外漢の自分にとって、興味深かったというか、思わず頬が緩んでしてしまったのでメモ。
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日本とアメリカの小説はどこが違うのか。柴田は2点を指摘する。第1に、家族の扱い方だ。一昔前のアメリカ小説では、幼少の頃の体験を想起しながら主人公が語るという、自伝的小説がメインだった。幼少の頃の体験というのだから、必然的に「家族」は大きなテーマとなる。そして現代のアメリカ小説でも、親子関係の物語や結婚生活の物語など、家族は大きなテーマであり続けている。その際の「家族」は、往々にして「不幸な家族」であるのだけれども。他方、日本の小説では、都会にて一人で暮らしている、「独身者の物語」がメインだという。
第2に、「異性への期待」である。柴田は日本の女性作家が描く異性への期待(観)を、巧みにもこう表現した――「威嚇しない/下半身のない男が、遠くからなんとなく包んでくれる」。一方、アメリカの女性作家もこのような男性像に興味がないわけではないのだが、こういう像はすでにハリウッドで消費尽くされており陳腐なため、描かれることはあまりないという。「何を描くべきか」のモラルが日米で異なっているのだが、そのモラルには同時代の空気のみならず、映画産業やTVドラマなど、それまで何がどのようにどれくらい表現されてきたのかという、文化資本全体の履歴が大きく作用してくるのだ。「陳腐」がもっとも嫌われる。
他方、男性作家が女性に期待する度合いも、日本の方が大きいという。思わず膝を打った柴田の診断は以下のとおりだ。「(日本の小説では)中学生から高校生の女性への期待が顕著であって、13歳〜17歳の女性が身体で世界の大事な部分とつながっていて、世界を最後に救済(relieve)してくれる」。たしかに、身体の若さそれ自体がひとつの救済であるという感覚は、これまで自分も往々にして感じてきたのですが。
アメリカでは90年代半ばを境にして、リアリズムを離れ、幻想文学が全盛期を迎えているという。優秀な書き手というのはどの時代にも一定数存在するのだけれども、一昔前は優秀な作家がリアリズムに走り、現在では幻想文学に走っている。この状況は日本の現代小説にも通ずるのだが、柴田は幻想文学についてこう語る。「幻想のその先に切実さが浮かんでくるかどうかが問題である」、と。"post modern, but heart felt" であるかどうかがひとつの鍵であると。ポストモダンに向き合う上で、このフレーズはたしかに試金石となりますよね。それでは、heart feltなクリスマスを。
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自然保護運動への嫌悪感、を越えて
お久しぶりです。長いあいだ音信不通でご迷惑をおかけした関係者各位には、これから説明に伺う予定です。すみません。ところで、「地球にやさしい」というキャッチコピーや、そのおおもとであるところの自然保護運動に対して、何かしらのうさんくささを感じませんか。自分もその一人でした。うさんくささや若干の嫌悪感を感じ続けてきた。でもつい先日、自分なりにその嫌悪感と折り合いを付ける道を発見したので、メモしておこうと思います。
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これまで、自然保護運動に対して、うさんくささを感じ続けてきた。なぜだろうと振り返ってみる。第1に、自然保護運動の「自然」という語が、ある対象を守るべき自然と認定し、他のものは切り捨てるという、選別性を孕んでいたからだ。<<なぜゴキブリは殺して良いのに、猫を殺してはいけないの?なぜ「森」は守るべきなのに、「砂漠」は守るべき対象でないの?砂漠の緑化は、砂漠の生態系を破壊することではないのか?>> 第2に、「自然」という語を突き詰めて考えれば、「あるがまま」ということなのだから、今ある生態系が滅びても良いのではないかと考えていたからだ。<<人間が地球環境を極限まで破壊し、現在生きとし生ける生物が死滅したとしても、何十万年という「地球的」スパンで考えれば、そこには新たな生物が生まれるはずでないのか?>>
つまり、自然保護運動は、今現在この空間に生きるわたしたちないし数世代先までの子孫に対して、快さを与えてくれたり生存に不可欠な資源を提供してくれる自然環境を、守ろうとする運動だ。他方、「自然」や「地球」という概念を、(人間の手を離れた/無条件に守るべき)超越的価値だと考えている人に出会うと、うさんくささを感じてきた。「地球にやさしい」ではなく、「このわたしにやさしい」と叫ぶのならば、何も問題はなかった。
「自然」という語が日本で最初に用いられたのは、明治6年、西周によってだという。それまでは、愛でる対象であるところの「花鳥風月」や、「山川草木」といった語が用いられてきた。「花鳥風月」や「山川草木」といった語は、より個別具体的であって、ある瞬間ある場所に存在する具体的な主体(人間)を抜きにしては成立しえない。ところが、「自然」という語はより抽象的であり、具体的な人間抜きでも成立するように思えてしまう。
「自然」という語は抽象的だ。自分を遠く離れている。「自然保護」というスローガンはあまりに大義名分に過ぎる。しかし、家の近くにある、子どもの頃から遊んできた裏山が無くなるのは寂しいし、実家近くのさざ波立つ海岸が埋め立てられるとなると、純粋に哀しい。わたしたちが「○○を守れ!」という時、その守りたい対象は、(抽象的な)「自然」である以前に、具体的な山川草木や、花鳥風月として存在している。
わたしたちの地元に存在する、ある美しい景観を、開発の魔の手から守りたいとする。わたしたちはどのように考え行動するだろうか。社会学者の関礼子は、「大手の浜マリンタウンプロジェクト」の事例を分析した。地元住民は、昔から慣れ親しんできた大手の浜を失いたくなかった。この「ただ失いたくない」という気持ちが一番強い動機として存在した。関礼子曰く、住民たちは「自然保護のスローガンを、外部に対して主張する際の効果的フレームとして用いた」。曰く、当初は「景観を守れ」と運動したが、効果がないとわかると、「漁業を守れ」という主張がなされた。しかし漁業補償協定が締結されてしまったので、「サンゴを守れ」という主張に切り替えられた。サンゴ問題も解決されそうになると、「ウミガメ産卵地を守れ」という言説にシフトさせた。そしてバブルが崩壊しマリンタウンプロジェクト自体が立ち消えになった現在では、プロジェクト推進派と反対派が、同じテーブルについて地域振興を模索しているという。寓意的である。「守りたいと思ったから、むしろ守るべき自然を発見していく」のである。
「自然保護運動」という大きな物語は、多くの人が一つの目標に向かって連帯する公共領域を創成する。「目の前の綺麗な景色をわたしがただ失いたくないんです!」よりも、「ウミガメを守ろう!」と主張する方が、多くの人を巻き込むことができる。より正当性を持っているかのように思わせられる。個別具体的な自分の欲望から出発した主張を、普遍性や超越性を持っている(かのような)主張に翻訳してはじめて、「運動」を起こすことができる。「花鳥風月」や「山川草木」を守りたいというわたしの気持ちは、「『自然』を保護せよ」という命題に置換されなければならない。その気持ちを真に実現するには。
自分のお気に入りの場所を失いたくないという気持ちには、激しく共感できる。「自然を保護せよ」という普遍的な装いの主張に、これまで「うさんくささ」を感じてきたのだが、その主張の根底に存在する動機が「わたしはこの場所を失いたくない」という気持ちであるのならば、すんなりと腑に落ちる。そして個別具体的な「花鳥風月」に対する動機は、自分個人や具体性・個別性を隠した普遍的な「自然保護運動」の論理に変換されなければならないのだ。動機の実現を勝ち取るには。
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/ ノ ヽ ( ノ⊂ ̄))) ̄⊃
/|ヽ (_ノ ._ ̄ ● ●
/ |ノ .) (_) ( _●_) むしゃむしゃしていた。
∋ノ | /――、__ ./ |∪| その場所を守れるなら何でもよかった。
/ /| ヽ__ノ | / ./ヽノ 今は反芻している。
| ( | ( ’’’ | ( /
|__ヽ.L_ヽ Lヽ_ヽ
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最後に余談を。ひとつの例では、「お気に入りの場所を失いたくないという気持ち」から出発した(普遍性の衣装をまとった)自然保護運動が成功し、ある地域が国定公園に指定された。すると、国から「触れるな・壊すな」という命令が下される。運動が成功したはずなのに、人々はこれまでどおりその場所に向き合うことができず、疎外感を感じたという。また阿寒国立公園の例では、土の道路のコンクリート舗装をめぐって、関係者が紛糾した。自然保護関係者は「土の感触が大切」と主張し、他方、障害者保護団体は「車いすの人でも楽しめるように舗装して欲しい」と主張したという。あなたなら、どのような解決策を考えるか。普遍的に叫ばれる「自然」というひとつの価値はあくまで泥臭く具体的なのであって、その価値の背後にうごめくあまたの政治ゲームの存在を知ると、なぜか安堵のため息がこぼれるのだ。
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パリの建築と景観、そして移民
パリの建築について軽く調べていた。パリは建てるにも壊すにも規制が厳しすぎる。だからあれだけの街の雰囲気が残存しているわけでもある(ちなみに昨今は住居不足によるバブル気味だそうで、マンション一室の値段が購入時と比べて2倍にアップした例などはザラだとか)。地震は来ないので、耐震性は問題とならない。その点対照的な「京都の街並み保存計画」は興味深いけれども、また別の機会に。
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1993年施行の「風景法」で定められた、パリの「景観の全体的保護のための紡錘体」による高さ規制について。(参照pdf) 面白いなぁ。当たり前だけど、景観を守るために、厳密な手続きやルールが定められているわけです。

�� 眺望対象(図中A)の前で、最も良い景観を得られる地点を設定する。
�� 眺める人の目(同B)と眺望対象の屋根の両端(同C及びD)を結んで、三次元平面(同三角形BCD)を作る(この三次元平面が紡錘体とされる)。
�� 三角形BCDの領域に含まれる建物の高さを、三角形BCDより下側になるよう規制する。
�� Aの背後の風景を保全する場合は、三次元平面上にその平面の高度を示す「最高高度ライン」(例:同線分C'D')を引き、このラインを超えないよう建物の高さを規制することも可能。
さて、視覚的な景観が将来にわたって保全されることが法律で保証されたとしても、人間の動きまで規制することはできない。数年前、高級な雰囲気漂う街の一角に、とある高級ホテルが建設された。しかし移民がその地区に住み着いたため、街の雰囲気が変わり、治安が悪化した。宿泊料金と周囲の雰囲気が不釣り合いになってしまったそのホテルは、現在、空席が目立つという。(この問題については個人的に調査中)
「移民が街を悪くする」などと暴論を吐くつもりは毛頭ない。繊細な問題を軽く扱っていることも自覚している。ただ確認しておきたいのは、「景観」とは一体なにを指すのかという疑問だ。建築物、およびそれを取り巻く人間を含めて、「街並み」が出来上がる。建築基準を法的に厳しく規制したとしても、人の流れまでは完全に予測できない。そういう現実が、存在している。
日本の話だが、ある賃貸マンションを建設したとしよう。築年数がかなり経つと、人気が落ちる。空室が目立ってくる。賃貸料を安く設定すれば空室を埋めることができる。だが、不動産はこう言った。「これ以上賃貸料を下げると、それなりの人間が入居してきますよ。その覚悟があなたにありますか。そろそろ壊し時じゃないですかねぇ」
わたしたちは大抵の場合、「ある種の人間」と関わることを予感すると、恐れおののき、リスクを減じるため、彼らを避ける行動を選択する。「差別は心の問題です!」などと優等生的な主張をしたいわけではない。旅行に出かけるならば治安の良いところを選びたいし、マンション経営というビジネスを営むならば、リスクヘッジは必要不可欠だ。わたしたちの慣れ親しんでいる日常の規範に従わない者たちは、「危険な」他者だ。わたしたちは自分や自分の愛する人の安全を確保したい。当たり前だ。その誰しも持っているであろう考えが脳裏をよぎる場面に、ひょっこり、社会の裂け目が見え隠れする。移民問題、そしてもしかしたら階級社会の問題も、ある部分では、わたしたちが何をリスクと認識し、どのリスクをどれくらい受容するかという、リスク論的な問題であるのだろう。
「景観」の問題はさらに根深い。わたしはなぜパリ旅行に出かけるのか。漠然と想像する「パリならではの素敵な雰囲気」を味わうために、だ。フランス政府もそのことを理解しているから、「景観」という概念を用いて、建築物を法的に保存しようとする。だが、政府が、「誰がどこに住むべきか」についてまでも規制することはできない。それではユダヤ人ゲットーの時代に逆戻りしてしまう。しかし、わたしたち観光客は、現に「素敵な」パリの街並み(建物+人)を求めている。そのために大金を払って旅行する。だからこそ、移民がまわりに住み着いたとあるホテルは、廃業寸前に追い込まれた。
仕事で得たお金は、「素敵な」ものに投資したい。「素敵な」というのは、美的感覚であったり、ワクワク感ドキドキ感であったり、奥ゆかしさであったりするだろう。世の中である対象が隔離されてゆく場合、二つのケースが考える。「嫌われているから避けられる」場合と、「素敵と見なされないから(結果として)避けられる」場合だ。後者は、すなわち市場の淘汰の問題でもある。倫理的な観点から、「嫌うなよ」と言うことはできる。差別を規制する法を制定することもできる。しかし、「好きになれ」とは言えない。排除の構造の二様式。「嫌われているから排除されている」ケースは目につきやすい。しかし、「素敵と見なされないから(結果として)排除されている」ケースは、目立ちにくい。後者の方が圧倒的に数多く存在していて、身近に深刻な問題を孕んでいる場合が多いのに。「嫌い」と「好きではない」は似ているようで、実は全く異なっている。そこに働く法的・倫理的メカニズムもまったく違う。
さて、移民を含めた新たな「素敵な」パリ像、パリの(広義な意味での)「景観」を再創造する可能性は、果たして存在するのだろうか。もし可能ならば、その新たな「景観」の胎動は、どこから聞こえてくるのだろうか。
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夏の、音
めったに書かない単発音楽紹介エントリなんですが、この期間限定で無料公開されているミックスmp3があまりに良いので紹介しちゃいます。DJ Troubl – A Journey Into Fresh Diggin mix CD(リンク先mp3注意)。70分程度。
「Jazzyなhiphop」で検索かけてこのサイトにたどり着く人がかなりいるけれども、これは相当質が高いので、超オススメ。夏にぴったり。騙されてダウンロードすべし!切実に良いから‥。実際に買うと2000円くらいするし。親ページはStones throw records。つまりmadlib系。そう、街でもちらほら浴衣姿を見るようになってきて、ときめきますよね。夏だ‥
恋愛とは美しき誤解
ときどき立ち返ると、やはり亀井勝一郎は腑に落ちるな。彼の言葉に触れると、亡くなった祖父を想い出す。小学校すら廃校になるような田舎の漁村で、商店を営みながら、商売気もそぞろに、言葉の魔力に取り憑かれていた、その姿を。そういえばこれも祖父がくれた本だった。以下はすべて、『愛の無常について』より引用。
恋愛とは美しき誤解であり、誤解であって差支へありませぬ。そして結婚生活とは恋愛が美しき誤解であったことへの惨憺たる理解であります。理解は犠牲を要求します。絶えず理解を疑うことが、理解に近似する唯一の道です。人間はいったい、何を知りうるのでしょうか。
恋する人間をごらんなさい。彼らはみな天才的に振舞っているではないか。恋愛は、芸術と同じように、破滅と復讐の上に成立する快楽なのです。だから美しい。愛し合う二人の恋は、ほとんど決して同じではない。恋愛とは、本質的には片想いなのです。「想像されたものはすべて実在する」という恋の狂気なのです。
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快楽と幸福の追求に際して、我々はひどく大胆に空想的になるか、反対に小さく臆病になるか、どちらかの場合が多い。どのような快楽、いかなる種類の幸福であっても、もしそれがその名に値するものならば、必ず努力と苦痛は避けられぬ、気晴らしといえども例外ではない。これが鉄則です。
快楽と無常は双生児なのです。もし死を忘れ、人間であることを忘れさせるほどの幸福と快楽があったならば――。神を求むる心もそこから起こりました。死が、快楽にとって無上の薬味であるならば、快楽は、死にとって死に慣れさせる適切な練習とはいえますまいか。死は快楽への執着を倍加させ、同時に快楽はその復讐をも倍加させるという風で、まことに困ったことに、この二つは永久に仲良く収まることができませぬ。快楽を歌った詩人も、死を歌った詩人も、換言すれば同じように復讐を歌っているのかもしれませぬ。
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相手の気持ちを考えつつ感情のままに生きること
垂れ流しから移植。今回の恋愛で得たもの失ったもののまとめ。
別れ際に、「もう少し感情のままに生きてもいいんじゃないのかなぁ‥」と言われた。感情のままに生きること。それは、歳を重ねるごとに、色々なことを知り考えるたびに、一番失ってきた、でも実は一番大切なこと。
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深く考える、つまりひとつの決断を下す前に慎重にあれこれ吟味して限りなく公正な方向へ自分を開いていこうとするのが学問の身のこなし方だとすれば、そうじゃなくて、考える前に全部ぶつけて全部引き取るような、そんな熱い何かを忘れかけていた。そんな「熱さ」がなきゃ何も生み出せない場合や関係性があるということも。なにかを切りひらく、誰かを心から捕まえる、そのためにはまず丸ごと自分を投げ出すこと、生身のまま投企すること、こんな4年前の自分ならしっかり出来ていたことを見失っていた。
相手の立場や気持ちをあれこれ考えるってのは、実は、自分が決断の重みから逃げてるわけでもある。そこにサプライズってのは、無い。
わかりやすい喩えは、芸術だ。ある作品が優れた芸術であるかどうかは、作品の「強度」によって決められる。その「強度」は何によって生まれるのか。作品がフェアだからじゃない。相手(鑑賞者)を思いやっているからでもない。むしろ、時に暴力的に強引に、全く相手を省みずに、切り裂いてくれるから、わたしたちは芸術に打ちのめされ惹き付けられる。そのかわり芸術は、すべてを一人で引き受ける。丸ごと投げて丸ごと引き受ける。驚きやときめきは、そこにしか生じない。学問の身体技法に染まって、生きるうえでの芸術を忘れるな。生の芸術、そしてその強度を、常に忘却するな。
相手の気持ちを考えて行動するってのは、逆にいえば、相手の予想の範囲内にとどまるってことでもある。相手の気持ちがわからなければ、常に新しいなにかを与えられるだろう。けれども、わかってしまったら、苦しいのだ。相手の気持ちに敏感になればなるほど、自分はどんどん狭められてゆく。自分は決して「いいひと」じゃないけど、「いいひと」が恋愛対象から外され続けるのは、そこなのだろう。
相手の気持ちを想像しなくて済むのならば、なんと自由なのだろう。社会学者のブルデューはいう。労働者階級の人々は、高級レストランで、人目を気にせずガチャガチャ音を立てる。彼らは自由だ。上流階級の人々は、軽やかに高級レストランにふさわしい立ち振る舞いをする。一方、中流階級の人々は、「マナーを守らなきゃ」という意識(=相手の気持ちの想像)に縛られるため、労働者階級のように自由に騒ぐことも出来ず、かといって軽やかに振る舞うこともできず、常にぎごちなくなってしまう。
わたしたちは歳を重ねるにつれ、相手の気持ちを想像するようになる。想像することから責任が生まれる。でも、その想像は自分を狭め、自分を相手にとって凡庸なものにしてしまう。相手の気持ちにとらわれつつ、それでも、常に軽やかに新しい何かでい続けること。相手の気持ちを想像しつつ、それでも、自らを押し通し、「芸術」として決断し、丸ごと責任を引き受ける「熱い何か」を忘れないこと。――何も考えずに自由に振る舞えたあの頃はもう過ぎ去り、大人の男としてどう生きていくのかといえば、これしかないのだろう。後悔なら腐るほど出来るが、腐りたくないなら、後悔の向こう側へ突き抜けるしかない。
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Netにうごめく素敵な音源たちpart.2
音楽、幸せ。以前のエントリでは素敵な夜のお供に最適なNet Radioサイト(Sundayserver.comなど)と超ヤバいお得ツール(Streamripper)を紹介しましたが、その流れで、第2弾!今までこれを知らなかったことに後悔。
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音楽好きにはGilles Petersonが誰なのかをあらためて説明する必要はないでしょう。クラブ系のクロスオーバー(Soul, jazz, hip-hop, house, funk)で類い希なるセレクトセンスを発揮するDJですが、彼がイギリスBBCで毎週やっている「World wide」という番組がネットで聴けるんですな。なぜ今まで気づかなかったんだ!(BBC World wide)嬉しいなぁ。過去の番組はここから聴けるみたいです。詳しい情報はこちらへ。ちなみにCDもかなり良い。
その他にはRaregroove系のDJ、Norman Jayがやっている番組(Good Time Sound System)も激しくヤバい(詳しい情報はこちらへ)。Good TimesのCD、Good Times4も発売されていて、視聴はここでできる。
で、どうせなら録音してmp3にしたいよね?というわけで、新たなツールをご紹介。この前紹介したツールでは録音できない(Winampから聴けない)ため。それが、S recというソフト。これはパソコン上で鳴っている音をすべてハードディスクにwaveファイル化かmp3化してくれるソフト。ソフトの制限なく録音できるのが特徴。お気に入りの番組を録音しといてipodに突っ込むべし。毎週タダで好きな場所でAir Check。むふ。(詳しい情報はこちらへどぞ)
大学時代の自分の音楽趣味遍歴。1,2年:昔から家でかかってた+高校時代ジャズピアノを練習していた影響で、とにかくJazz好き、正統派Modern Jazzマンセー状態(ちなみにJohn Coltrane.comではいくつか音源がフルで聴けるし生演奏動画も見れる!)→3年:クラブ系ジャズやLounge系の音の良さを理解する→今:Lounge系やTrip-hopでは何か物足りなくなり、hip-hopというかブラックな音とFunkとJazzが絡み合った感じが大好きに。Jazzyなhip-hopというか。友人の影響はかなり強かったけれども、似たような遍歴を辿ったヒトも結構いるんじゃないのかな、と。もちろんRockも大好きだけれども。CD/RECORDSを買うお金がないならば、音の図書館Janisへどうぞ。
最後に、今日友人に教えてもらったStones Throw RecordsのJukeboxも要チェックですよ。一定の期間ごとに素晴らしい音源がアップされています。madlibというかQuasimotoのミックスmp3がいくつか聴けます(こことここ)。ついこの前5月7日には代官山AIRに来てたみたいですが(逃した!)、今年はFUJI ROCK FESTIVAL 05にも出演するみたいなんで、どきがむねむねする。7月29日のメンバーはドツボ。みなさんは今年のフジロック行きますか?
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