ときどき立ち返ると、やはり亀井勝一郎は腑に落ちるな。彼の言葉に触れると、亡くなった祖父を想い出す。小学校すら廃校になるような田舎の漁村で、商店を営みながら、商売気もそぞろに、言葉の魔力に取り憑かれていた、その姿を。そういえばこれも祖父がくれた本だった。以下はすべて、『愛の無常について』より引用。
恋愛とは美しき誤解であり、誤解であって差支へありませぬ。そして結婚生活とは恋愛が美しき誤解であったことへの惨憺たる理解であります。理解は犠牲を要求します。絶えず理解を疑うことが、理解に近似する唯一の道です。人間はいったい、何を知りうるのでしょうか。
恋する人間をごらんなさい。彼らはみな天才的に振舞っているではないか。恋愛は、芸術と同じように、破滅と復讐の上に成立する快楽なのです。だから美しい。愛し合う二人の恋は、ほとんど決して同じではない。恋愛とは、本質的には片想いなのです。「想像されたものはすべて実在する」という恋の狂気なのです。
快楽と幸福の追求に際して、我々はひどく大胆に空想的になるか、反対に小さく臆病になるか、どちらかの場合が多い。どのような快楽、いかなる種類の幸福であっても、もしそれがその名に値するものならば、必ず努力と苦痛は避けられぬ、気晴らしといえども例外ではない。これが鉄則です。
快楽と無常は双生児なのです。もし死を忘れ、人間であることを忘れさせるほどの幸福と快楽があったならば――。神を求むる心もそこから起こりました。死が、快楽にとって無上の薬味であるならば、快楽は、死にとって死に慣れさせる適切な練習とはいえますまいか。死は快楽への執着を倍加させ、同時に快楽はその復讐をも倍加させるという風で、まことに困ったことに、この二つは永久に仲良く収まることができませぬ。快楽を歌った詩人も、死を歌った詩人も、換言すれば同じように復讐を歌っているのかもしれませぬ。
素敵なおじいちゃまですね
なんとなく、セザンヌの絵に出てきそうな方を想像しました。
そういう方のお孫さんということでgenさんの存在も腑に落ちました。
才能にこそ人類の歴史がきざまれる。才能によって歴史が作られるより前に。
「愛」という言葉で切り取られる切断面に、たまたま君がいた。。。
そう、そのままの君がいた。。。
いや、切り取られた切断面にぽっかり空いた穴に君がすっぽりとはまり込んだというところか。。。
いや、「愛」という切断面の向こう側を覗き込もうとしたときに、たまたま君がその邪魔をしたというところか。。。
「愛」に対象が存在するなんて思い込んだのは間違いだったような気がする。。。
でも、それでもなお、君がいる、正にそこにこそ「愛」を感じるのは確かだったのだ。。。
そう。。。そうなることは「知っていた」。。。
知っていたからこそ、あえて踏み込んだのだ。。。
君の向こう側へと、君を求めて。。。
。。。なんてことを書きたくなってしまいます。。。
はじめまして、時々ここのお邪魔させてもらってます。なるほどな、と思いました。
恋愛っていうものに惑わされて、今疲れた自分がいます。そして、恋愛とは、結婚とはと考えるようになった自分もいます。
簡単な恋愛をする程、何も得られず心にぽっかりと穴が空き、終りという区切りをつけた後にはその期間を惜しむ経験をしました。
誰に相談しても心を落ち着けることが出来なかったのですが。
また拝見させて頂きます^^
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