柴田元幸が日本の現代小説を見立てると

 先日、日本随一のセンスを誇る翻訳家・柴田元幸が、日本とアメリカの現代小説の違いについて語っていた。門外漢の自分にとって、興味深かったというか、思わず頬が緩んでしてしまったのでメモ。

 

 日本とアメリカの小説はどこが違うのか。柴田は2点を指摘する。第1に、家族の扱い方だ。一昔前のアメリカ小説では、幼少の頃の体験を想起しながら主人公が語るという、自伝的小説がメインだった。幼少の頃の体験というのだから、必然的に「家族」は大きなテーマとなる。そして現代のアメリカ小説でも、親子関係の物語や結婚生活の物語など、家族は大きなテーマであり続けている。その際の「家族」は、往々にして「不幸な家族」であるのだけれども。他方、日本の小説では、都会にて一人で暮らしている、「独身者の物語」がメインだという。

 第2に、「異性への期待」である。柴田は日本の女性作家が描く異性への期待(観)を、巧みにもこう表現した――「威嚇しない/下半身のない男が、遠くからなんとなく包んでくれる」。一方、アメリカの女性作家もこのような男性像に興味がないわけではないのだが、こういう像はすでにハリウッドで消費尽くされており陳腐なため、描かれることはあまりないという。「何を描くべきか」のモラルが日米で異なっているのだが、そのモラルには同時代の空気のみならず、映画産業やTVドラマなど、それまで何がどのようにどれくらい表現されてきたのかという、文化資本全体の履歴が大きく作用してくるのだ。「陳腐」がもっとも嫌われる。

 他方、男性作家が女性に期待する度合いも、日本の方が大きいという。思わず膝を打った柴田の診断は以下のとおりだ。「(日本の小説では)中学生から高校生の女性への期待が顕著であって、13歳〜17歳の女性が身体で世界の大事な部分とつながっていて、世界を最後に救済(relieve)してくれる」。たしかに、身体の若さそれ自体がひとつの救済であるという感覚は、これまで自分も往々にして感じてきたのですが。

 アメリカでは90年代半ばを境にして、リアリズムを離れ、幻想文学が全盛期を迎えているという。優秀な書き手というのはどの時代にも一定数存在するのだけれども、一昔前は優秀な作家がリアリズムに走り、現在では幻想文学に走っている。この状況は日本の現代小説にも通ずるのだが、柴田は幻想文学についてこう語る。「幻想のその先に切実さが浮かんでくるかどうかが問題である」、と。"post modern, but heart felt" であるかどうかがひとつの鍵であると。ポストモダンに向き合う上で、このフレーズはたしかに試金石となりますよね。それでは、heart feltなクリスマスを。


Posted by gen at December 24, 2005 10:37 AM | TrackBack(0)
Comments

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切実さ。まさにそうですね
ミステリーでも幻想文学でもジャンルを問わず
残りますね。ヴァイオリンについた涙の白い結晶みたいな・・・

genさん復活おめでとうございます。

Posted by: 葵 at December 28, 2005 10:18 PM
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