パリの建築について軽く調べていた。パリは建てるにも壊すにも規制が厳しすぎる。だからあれだけの街の雰囲気が残存しているわけでもある(ちなみに昨今は住居不足によるバブル気味だそうで、マンション一室の値段が購入時と比べて2倍にアップした例などはザラだとか)。地震は来ないので、耐震性は問題とならない。その点対照的な「京都の街並み保存計画」は興味深いけれども、また別の機会に。
1993年施行の「風景法」で定められた、パリの「景観の全体的保護のための紡錘体」による高さ規制について。(参照pdf) 面白いなぁ。当たり前だけど、景観を守るために、厳密な手続きやルールが定められているわけです。

�� 眺望対象(図中A)の前で、最も良い景観を得られる地点を設定する。
�� 眺める人の目(同B)と眺望対象の屋根の両端(同C及びD)を結んで、三次元平面(同三角形BCD)を作る(この三次元平面が紡錘体とされる)。
�� 三角形BCDの領域に含まれる建物の高さを、三角形BCDより下側になるよう規制する。
�� Aの背後の風景を保全する場合は、三次元平面上にその平面の高度を示す「最高高度ライン」(例:同線分C'D')を引き、このラインを超えないよう建物の高さを規制することも可能。
さて、視覚的な景観が将来にわたって保全されることが法律で保証されたとしても、人間の動きまで規制することはできない。数年前、高級な雰囲気漂う街の一角に、とある高級ホテルが建設された。しかし移民がその地区に住み着いたため、街の雰囲気が変わり、治安が悪化した。宿泊料金と周囲の雰囲気が不釣り合いになってしまったそのホテルは、現在、空席が目立つという。(この問題については個人的に調査中)
「移民が街を悪くする」などと暴論を吐くつもりは毛頭ない。繊細な問題を軽く扱っていることも自覚している。ただ確認しておきたいのは、「景観」とは一体なにを指すのかという疑問だ。建築物、およびそれを取り巻く人間を含めて、「街並み」が出来上がる。建築基準を法的に厳しく規制したとしても、人の流れまでは完全に予測できない。そういう現実が、存在している。
日本の話だが、ある賃貸マンションを建設したとしよう。築年数がかなり経つと、人気が落ちる。空室が目立ってくる。賃貸料を安く設定すれば空室を埋めることができる。だが、不動産はこう言った。「これ以上賃貸料を下げると、それなりの人間が入居してきますよ。その覚悟があなたにありますか。そろそろ壊し時じゃないですかねぇ」
わたしたちは大抵の場合、「ある種の人間」と関わることを予感すると、恐れおののき、リスクを減じるため、彼らを避ける行動を選択する。「差別は心の問題です!」などと優等生的な主張をしたいわけではない。旅行に出かけるならば治安の良いところを選びたいし、マンション経営というビジネスを営むならば、リスクヘッジは必要不可欠だ。わたしたちの慣れ親しんでいる日常の規範に従わない者たちは、「危険な」他者だ。わたしたちは自分や自分の愛する人の安全を確保したい。当たり前だ。その誰しも持っているであろう考えが脳裏をよぎる場面に、ひょっこり、社会の裂け目が見え隠れする。移民問題、そしてもしかしたら階級社会の問題も、ある部分では、わたしたちが何をリスクと認識し、どのリスクをどれくらい受容するかという、リスク論的な問題であるのだろう。
「景観」の問題はさらに根深い。わたしはなぜパリ旅行に出かけるのか。漠然と想像する「パリならではの素敵な雰囲気」を味わうために、だ。フランス政府もそのことを理解しているから、「景観」という概念を用いて、建築物を法的に保存しようとする。だが、政府が、「誰がどこに住むべきか」についてまでも規制することはできない。それではユダヤ人ゲットーの時代に逆戻りしてしまう。しかし、わたしたち観光客は、現に「素敵な」パリの街並み(建物+人)を求めている。そのために大金を払って旅行する。だからこそ、移民がまわりに住み着いたとあるホテルは、廃業寸前に追い込まれた。
仕事で得たお金は、「素敵な」ものに投資したい。「素敵な」というのは、美的感覚であったり、ワクワク感ドキドキ感であったり、奥ゆかしさであったりするだろう。世の中である対象が隔離されてゆく場合、二つのケースが考える。「嫌われているから避けられる」場合と、「素敵と見なされないから(結果として)避けられる」場合だ。後者は、すなわち市場の淘汰の問題でもある。倫理的な観点から、「嫌うなよ」と言うことはできる。差別を規制する法を制定することもできる。しかし、「好きになれ」とは言えない。排除の構造の二様式。「嫌われているから排除されている」ケースは目につきやすい。しかし、「素敵と見なされないから(結果として)排除されている」ケースは、目立ちにくい。後者の方が圧倒的に数多く存在していて、身近に深刻な問題を孕んでいる場合が多いのに。「嫌い」と「好きではない」は似ているようで、実は全く異なっている。そこに働く法的・倫理的メカニズムもまったく違う。
さて、移民を含めた新たな「素敵な」パリ像、パリの(広義な意味での)「景観」を再創造する可能性は、果たして存在するのだろうか。もし可能ならば、その新たな「景観」の胎動は、どこから聞こえてくるのだろうか。
何度もお邪魔しているのに、「続きを読む」をクリックしなかったがために、非常に重要な文章を読み落としていました。
「クリックしたくない」ではなく、「クリックしたいとは思わない」のギャップというべきでしょうか?
「理」では統制不可能な人間の行動の背景に潜む「情」の側面を再認識したような気がします。
パリの広義な意味での「景観」の再創造。。。
もし、可能にするにはとなれば、「情」に対するコペルニクス的転回とか必要になるかもしれないですね。。。
おしゃれな町並みにしっくりくるような服装・ふるまいをしてくれれば、部屋代を割引しますよ!なんていうのはだめでしょうか・・・?
統一感ある色のせいか、ブログによるところの紡錘体の高さ制限のためかは知りませんが、実際にみたパリの街はあまりにも軽いマカロンのようで、「一体本物なの?」と目を疑いました。
私にとって建物とは「重量感」だったんだなと気づかされたパリ体験。
地震も無いし、耐震性よりも何よりも景観を重視できるのはいいですね。
でも個人的にはイギリスの建物のほうが好きです。
雨に濡れたり、曇り空のもとでの建物の面白さはかえって統一感無くばらばらな方が際立ちますね。
人が生きているって感じがして。
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