原因追及のスペクトラム――言葉足らずだったので

 『サマリア』はこのGW、本気でおすすめしたい映画。‥先日書いた「リスクを抱えて生きる――確率と偶有性」に疑問提起型のコメントを頂いたので、言葉足らずだった部分を書き添えておきます。脱線事故雑感の2弾目です。

 事件後にマスコミおよびネット上で繰り広げられてきた言説を類型化すると、

1.脱線の直接的・技術的原因の解明(ex.置き石か速度超過か?ATSの不備?)
2.運転士・車掌のとった行動について
3.運転士・車掌をそのような状態に追い込んだJR内在的要因(恐怖の日勤教育、過密なダイヤ、運転士の「未熟」さ、運転士は「ゲーム脳」、JR西日本の「利益主義」)
4.運転士・車掌・JRをそのような状態に追い込んだ社会的要因(時間厳守しないとクレームを出す乗客、時間厳守社会日本、リストラによる質の低下)
5.救助体制のあり方

に分けられるだろう。

 1.と2.については事故調査委員会が明らかにするだろう。だが、事故再発の確率を下げるには、それら直接的要因に加え、3や4の背景的状況に関する議論が必要なのは言うまでもない。たとえば、3.のJR内在的要因(システム要因)に関しては、「あるルーティンワークを人間にさせる時、二律背反となるようなルールを同時に課してはいけない」という指摘。

 「時間厳守で、かつ安全に電車を運行せよ」という命令は、特にラッシュ時のようなクリティカルな状況に置かれる運転手に対して指示されるべきものではない。両方をやろうとするあまり、どちらも達成できなくなるからだ。運転士に「ダイヤ通りに運行する」ことをルールとして課すならば、その前提として、「100%安全に運行する」ことはほかの誰か、恐らくダイヤを組む人間とATSやら護輪軌条やらを付ける役割の人間の両方が、責任を持たなければいけない。

(中略) 少なくとも、人員に余裕のまったくない状態でギリギリの運行ルーティンを毎日やらなければならず、そのためにオーバーランや制限速度違反が常態化していたことを定量的に計測して改善策を打つ社内ルールを作っておかなかったこと、それ自体がJRW「安全対策」の最大の問題だったという認識を、マスコミやブロガー諸氏は持つべきだと思うよ。で、その責任を取るべきなのは、当然ながら安全対策に最大の責任を持つ経営者だろ。(参照

 これは大事な話で、運転士の技術・精神論に事故原因を求めるのは、いささかピンぼけである。運転士のミスが事故に直結してしまうシステムを構築した経営者側の責任は、当然追及せねばならない。

 人間は誰でもミスを起こす。それを隠したい、控えめに報告したいという気持ちもある。(中略)だからこれらのミス、過失を前提として、これらが重大な事故に直結しないよう全体の仕組みが設計されなければならない。これが「フェイル・セーフ」と呼ばれる考えであることは、ここに書くまでもないだろう。(中略)「運がよくなくとも」ミスや過失が重大な結果に結びつかない仕組みを作っておくこと、そしてミスや過失を見逃さず、そこから学んで仕組みを改良していくこと、これこそが経営の責任であろう。(参照

 さて、もう一度整理しよう。ある事故が生じた際、事故原因追及(ないし再発防止策の検討)は、ひとつのスペクトラム内で行われる。

a.事故の技術的・偶発的要因

b.装置の欠陥・不備要因

c.装置を操作・整備していた人間のミス要因

d.その人間内在的な身体的・精神的要因

e.その人間のミスも考慮の上で安全構築されていないというシステム要因

f.その欠陥システムを放置した経営・管理責任要因

g.その欠陥システムを持つ企業を放置した行政の監督不備要因

h.それらすべての遠因である社会的・文化的要因

 このグラデーションのどこかに照準を合わせて、議論は進行する。わたしが前回のエントリーで書いたのは、h.の「社会的・文化的要因」に関するもので、「100%の利便性追求と100%の安全追求は両立しない。どこかで妥協点を探る必要がある。妥協点を探るには、社会ヴィジョンに関する議論も必要」というはなしだった。h.に関する議論が手薄に見えたので、そこを指摘したわけです。たとえば、JRをただ「利益追求」として批判すれば解決する問題などなく、「安全」という価値をより優先させるのならば、運賃が上がること、および定時運行が減ることを、わたしたちが幾分かは引き受けねばならない。

 どのレベルでの議論も必要でしょう。また議論する際には、「どのレベルで話をしているのか」を常に意識しなければなりません。難しいのは、責任追及の範囲と、原因追及の範囲が必ずしも一致しないこと。法的な責任追及は、a.からf.の範囲で行われるでしょう。だが、事故の再発を防止したいならば、g.とh.も含めて考えねばならない。h.の「社会的・文化的要因」を考えるに至っては、わたし自身を事故原因と切り離すことができなくなる。つまり、JRだけの問題ではなくて、わたし自身の生き方も含めた問題になる。法的責任追及の範囲=事故原因追及の範囲、ではない。再発防止を考える際、これは重要な視点だと思うのですが、いかがでしょうか。

 さて、長くなってしまったので、tomato-loverさんのコメントに答えて論を締めましょう。「遺族・被害者の特権性はなにか」とのご質問ですが、彼らは決定的に損害を被ってしまったという点が異なります。(被害者でない)わたしたちの目的は、事故の再発防止にあります。だから、ただ運転士やJRを非難するだけではなくて、先述したa.からh.までのグラデーションを幅広く考える必要がある。しかし、被害者の方々は、決定的に何かをもうすでに失ってしまったのです。ゆえに、(ある程度は)JRを感情的非難することも許されるのではないか、と。

 JR西日本の社長に罵言を浴びせる遺族の方々を不快に思う人もいるでしょう。だが、彼らは、偶有性に責任を求めることができません(参照)。行き場のない想い。決定的に何かが損なわれてしまった。そのこと自体に、社会として、寛容である必要があるのではないか。そう考えたわけです。腑に落ちなければ、再度コメントをくださいね。


Posted by gen at May 2, 2005 01:40 PM | TrackBack(1)
Comments

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はっきり言って、罵声を浴びせるシーンは見るに忍びないゆえ、チャンネルを切り替えている。
被害者の家族と、我々遇有性でのみ共感を得ることが可能なものたちとの決定的な違いが、乗り越えがたい境界を生み出す。そういったシーンを平気で見るためには、私から、感情の涙の最後の一滴まで奪いつくすか、それとも、私を、涙の海の底に沈めてしまうかのどちらかを選ばねばならないだろう。。。そんなことを考えさせるような気持ち(不快な気持ち)になってしまうのは、当たり前のような気がする。
また、その場を調停できるだけの「知」があれば、テレビという参入不可能な媒体に対して「苛立ち」を覚えるだけであろう。。。
「罵声を浴びせるシーンです」にて、チャンネルを切り替えるか、電源を落とすしか、それ以外、私にはとりうる手段を持ち得ない。
(そういう観点でも、Genさんの視点は非常に妥当だと思います)

Posted by: きすぎじねん at May 2, 2005 10:50 PM

まず、グラデーションなるものの考え方を提示していただいて、すっきりしました。ありがとうございます。自分が色んな視点をごちゃ混ぜにしていたことを自覚しました。
『「社会的・文化的要因」を考えるに至っては、わたし自身を事故原因と切り離すことができなくなる。つまり、JRだけの問題ではなくて、わたし自身の生き方も含めた問題になる』という部分とグラデーションの考え方をあわせて、遺族・被害者の方とそうでない方を分離するのには納得しました。

その上で、第一弾を読んだ時に感じた事を再度考えてみました。それは、腑に落ちないところというか、違和感なのですが、一面的なマスコミの報道を考えるとGenさんの言う「社会的・文化的要因」を考えることって一般的に無理に等しいのではないか??という何か諦めのような感じの感覚だと思います。一方、そのように考える人が多いと仮定すればこそ、Genさんの展開する論は意味を持つのかも知らないとも同時に思います。

Posted by: tomato-lover at May 4, 2005 12:06 PM

>きすぎさん

状況はますますひどくなってきていますね。社員の休日の過ごし方をバッシングすることにメディア資源を用いるなんてバカも甚だしい。愚の骨頂です。ようやくメディア側から自戒の声が出てきたみたいですが。(「罵倒だけ…恥ずかしい」 「客観報道」へ自戒
http://www.sankei.co.jp/news/morning/07na1003.htm
 ) 立ち位置に敏感な産経新聞らしい身のこなし方です。

『その場を調停できるだけの「知」』、これをはたして誰が公的に担えるのか、と考えてしまいますね。本来はメディアの社説がその役を果たすべきなのでしょうが、全く機能していない。

Posted by: Gen at May 8, 2005 12:57 AM

>tomato-loverさん

>一面的なマスコミの報道を考えるとGenさんの言う「社会的・文化的要因」を考えることって一般的に無理に等しいのではないか??
>という何か諦めのような感じの感覚だと思います。

たとえばニューヨークタイムズか何かが「時間厳守への過剰な欲求が事故の背景にあった」なんて指摘してましたよね。まぁ部分的な指摘ですが。

たしかに、「一般的に無理に等しいのではないか」という指摘には同意します。事故再発防止するには、即効性・実効性の観点から、とりあえず対症療法を考えないといけない。それがATSの早期導入であったりダイヤ改訂であったりJR西日本の人事更迭であったり云々です。

けれども、「社会的・文化的要因」を含めないと、わたしたち自身から切り離されてやおらJR西日本を悪者を仕立て上げるだけの感情論になってしまいやすい。昨今のJR西日本への馬鹿げたバッシングみたく。あれが許されるのは遺族だけです。

そしてなによりも、リスクとベネフィットはトレードオフ関係にあります。これを自覚していない人が多すぎる。そこらへんの議論はもう少しなされても良いのではないか、と考えます。でも、誰が「社会的・文化的要因」を議論し政策に反映するのか、と問われれば、しばし沈黙してしまうのも間違いないです。

Posted by: Gen at May 8, 2005 01:10 AM
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Title: 「も」から派生する「超過」という知的切断面。。。
Excerpt: Genさんの列車事故関連の分析は、非常によくまとめられており、かつ深く考えられていると思います。 私自身は、「h.それらすべての遠因である社会的・文化的要因」としての思いを書きましたが、実際のところ、そういった要因が深く関連しているものとして、マスコミの報...
From: 来生自然の。。。
Date: 2005.05.08