外見を気にする人間は「チャラい」?

 本家サイトのGuestbookにて、「僕のように髪型などの容姿の事でクヨクヨ悩む事ってありますか?これってバカバカしいことですか?」と質問を投げかけられた。自分にも無縁じゃないので、一度きちんと考えてみよう。人生論や「ナルシスト」論とも関わってくるだろう。

 まず、「髪型や服装やスタイルなどの外見を気にすることは恥ずかしい/後ろめたい」という幻想を破壊することからはじめたい。わたしたちが持っている時間・お金などの資源には限りがある。日々の生活は、その資源を何に/どのように/どれだけ振り分けるかによって変化する。資源配分の独自性が、その人の生き方の独自性だ。資源の振り分け対象、資源の振り分け方、資源を振り分ける度合い、とさしあたり定義できよう。

 「資源の振り分け対象」について。すなわち、何に対して自分のお金と時間を投資するのかについて。第1に、食べていくため(衣食住を満たすため)だ。時間軸でいえば、a.現在に対する投資と、b.未来(将来)に対する投資の二つに分けることができる。a.現在に対する投資とは、さしあたって自分が生きていくために、時間を使いお金を稼ぐこと。たとえば、会社で働くこと。バイトをすること。掃除洗濯などの雑事をこなすこと。病気を治すために入院・通院すること。b.将来に対する投資とは、たとえば(英語を用いた仕事しようと)語学を勉強すること。司法試験やMBAを目指し勉強すること。就活すること。大学受験の勉強をすること(高学歴=良い条件での就職)。大学院生が研究を行うこと。人脈作りに励むこと。結婚相手を探すために恋愛すること。このように、未来に対する「食べていくため」の投資は、今よりもよい条件(ローコスト・ハイリターン)で将来食べていくために行われる。

 第2に、自分自身の価値を高めるための投資。とりあえず、第1に挙げた「食べていくための投資」とは区別して考えて欲しい(もちろん密接に関連してはいるのだが)。ここでは、漠然と自分の価値を高めるための投資を考えている。「人間性を深める」「己の器を広くする」「教養を深める」「自分の生を充実させる」「大人になる」「モテる」ための投資といってもよい。たとえば、政治学・法学・生命科学・哲学・経済学などを学び、自分の教養を深め分析能力を鋭くすること。漠然とTOEICに向けた勉強をすること、資格を取ること。小説を読むこと、ニュースを見ること、新聞を読むこと。「社会勉強」としてインターンシップやバイトに励むこと。洞察の深い映画を見ること。音楽の趣味を豊かにすること。人生経験として恋愛すること、サークルに行くこと。社会運動を行うこと。エステに通うこと。整形すること。おしゃれの研究をすること。髪型を整えること。ジムに通うこと。

 第3に、とにかく快楽を享受するための投資。たとえば、友人と飲むこと。噂話に興じること。サークルで馬鹿騒ぎすること。釣りやサーフィンやスノボをすること。ジャンプを読むこと。ひたすらプレステをやること。2chで煽ること。快楽として音楽や映画や小説を楽しむこと。恋人といちゃつくこと、合コンすること。スポーツ観戦すること。旅行を楽しむこと。インテリアについてあれこれ悩むこと。

 以上のような分類はいささか強引だろうか。たしかに、たとえば読書や旅は、第2の「自分自身の価値を高めるための投資」でもあり、第3の「快楽を享受するための投資」でもある。でも、必ずしも、第2=第3ではない。数多くある快楽を提供してくれる選択肢から何を選ぶのかを決める際に、第2の「自分自身の価値を高めるため」という意識が、大きな影響を与える。たとえば、あなたはロンブーの番組を消して夏目漱石の本を手に取ることもあるだろう。J-popばかりでなく、クラシックも聴こうとするだろう。恋愛から、自分の人生に活かせる教訓を引き出そうとするだろう。ゲームを止めて、アートを観に行くこともあろう。「趣味(センス)の良い」ものを選ぼうとするだろう。つまり、純粋な快楽追求ではなく、快楽は多少減ったとしても、「自分の価値を高める」方向で選択肢を選ぶことがあるだろう。そのうちに、「センスの悪いもの/自分のためにならないものはイヤ」という形で、快楽のツボ自体が変化することもあるだろう(ex.「J-popなんてセンス悪くて聴いてらんないね」「ハリウッド映画は俗っぽくてイヤ」「ハワイよりもフランスだろやっぱ」)。

 まず、第1の「食べていくための投資」は無条件に重要といえる。自分および自分が養う者に対する責任は果たさねばならない。これをおろそかにする人は軽蔑されても仕方が無いだろう。「やるべきことをやる」とは第1の投資を行うことだ。苦痛を伴おうとも、引き受けねばならない。もちろん、仕事と第3の「快楽の享受」が一致すれば幸せなのだが。

 次に、第2の「自分の価値を高めるための投資」と第3の「快楽を享受するための投資」は、人それぞれだし、他人がとやかく言う権利はない。他者に迷惑を与えない限り、何が趣味だろうと自由だ。もちろん、第2と第3が一致していれば、幸せな状態だと言える。けれども、「ただ快楽を享受するよりは、自分の価値を高める形で投資した方がいいんじゃね?」とおせっかい程度に言いたい気もする。マンガばっか読むなら本も読めよ、と。たまには違う音楽も聴いてみろよ、と。サークルをやるなら、責任持って役職やってみろよ、と。恋愛するならば、ただ快楽を貪るのではなく、自分のダメな人間性を修正するきっかけにもしてみろよ、と。何よりわたし自身が、「ただの快楽追求」だと自己嫌悪に陥ってしまうのだ。「自分の価値を高める=快楽の享受」という状態を常に探して生きている。

 さて、「髪型や外見を気にすること」について考えよう。わたしは第2の「自分の価値を高めるための投資」という形で、読書もおしゃれも外見を気にすることも同列で扱った。これには理由がある。「自分自身のアイデンティティ(自分が自分らしく生きているという感覚)を満たすため」の行為として、全く差が無いと感じられたからだ。「教養が深いこと」と「おしゃれなこと」の間に、価値の差があるのだろうか。美しくありたいと願うことと、知識深くありたいと願うことの間に、価値差はない(ショップのスタッフは大学院生よりも劣っているか?)。誰しも美しい恋人を欲している。「どのように生きたいのか」という己のヴィジョンに従って時間・お金を配分すれば良いだけの話だ。

 「どのように生きたいか」とは、「他人にどのような人間として見られたいか」ということでもある。すなわち、自己像をどのように演出するのかというヴィジョンに従って、資源配分を決定すれば良い。そこに価値の差はない。「○○君って物知りね」「考えの深さに心打たれる」と言われたいなら、洋服買う金をすべて本につぎ込めばよい。「イケてる」「おしゃれさんだね」「綺麗」と言われたいならば、外見関連に時間・お金を配分すれば良い。もちろん人は両方を望むから、バランスを取りながら投資するわけだ。そしてそのバランスの取り方は自由だし、「すべてを持っている」ように見える人は、バランス配分の要領が良いに違いない。また、外見と内面への資源配分バランスが似ている者どうしが、互いに惹かれあうことが多いようにも思える。

 社会心理学に「自己評価」という指標がある。まぁ「どれくらい自分に自信があるか」といった指標なのだが、これが決定的に重要なのだ。「自己評価」の高い人は、より生に充実感を見いだす。「自己評価」の高い人は、より良い恋人を見つけ、より良い恋愛を楽しむ傾向がある。結論。まず、第1の「食べていくための投資」を怠らないようにしよう。これは人間としてのけじめだ。これをおろそかにするヤツがいわゆる「チャラ男」だ。次に、ぐだぐだしたりゲームや2chをするなど、ただ「快楽の享受」に時間・お金を配分するよりは、「自分の価値を高める」方向に投資してはどうだろう。「自分の価値を高める」とは、「どのような人間として見られたいのか」というヴィジョンを考え、そのヴィジョンに対して自分を近づけてゆくこと、すなわち(ヴィジョンに描かれた)自分に対する自信を深めてゆくことだ。その際に、自分のヴィジョンに従った外見と内面バランスで、自分の信条に従って資源配分すれば、他人にとやかく言われる筋合いもないのだ。肝要なのは、真摯に自己演出のヴィジョンを描くこと、そしてそのヴィジョンに対して妥協無く挑むことなのである。


Posted by gen at April 26, 2005 07:57 AM | TrackBack(1)
Comments

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自己評価を高めようと努力するんだけど
なかなかうまくいかないんですよね。
努力する方向が間違ってたり、ほめてくれる人が
いなかったりしてあきらめちゃう。
努力している時は、苦痛な時間が多いし
コンプレックスを抱えている人なんかは
それが努力によって本当に解決できるか分からない
のに、悩み苦しみながら生きていくのが嫌になるんだと思います。
そんなに苦しい思いをしながら生きていると
なんだか生きてる意味がなくなってくるし。
こんなに大変なら死んでしまったほうがいいやなんて
思ってしまうわけですよ。
自分に自信を持って生きている人は勢いに乗って
そのまま自己評価も高めていけて人生楽しく生きられる
んだろうなあ。

Posted by: at April 27, 2005 01:57 AM

まー、想像するのは難しいと思います。

Posted by: at May 7, 2005 04:32 PM

名無しさん、どうも。
いやいや、言わんとすることは伝わってますよ。
自分一人では何も生み出せない。他者からの評価がはじめて<わたし>の感覚を作り出してくれる。

>努力する方向が間違ってたり、ほめてくれる人がいなかったりしてあきらめちゃう。

という部分は決定的だと感じます。誰か一人でも認めてくれる人がいれば、その方向へ自分を伸ばしてゆける。わたしも含めて、ネットに個人的なアレコレを垂れ流す人が多いのも、そのためでしょう。第1に読者数、第2にコメントなんかで自分が承認される。

名無しさんがどのような境遇にいるのかは察しかねますが、身近な他者がそっぽを向いてしまう場合、ネットに居場所を求めるのも一つの手ではないでしょうか。

あるいは、公的に承認された資格を求める、とか。たとえば司法試験に合格すれば、その分野では、無条件に他者から承認されたことになる。

ひとつひとつ足場を探していくしかないと思います。死を考える前に、すべてもうやり尽くしてしまいましたか?

Posted by: Gen at May 8, 2005 12:51 AM

う〜ん。「自分の価値を高める」のに投資するのはすごく大事だ。でも、もっと大事なのは、「自分の価値を高め」続けてきた後のほうだと思うのよ。一生懸命自分の価値を高めているつもりでも、それが人から良く見られるためならば、自分に自信がつかない場合もある。例えば好きなA子ちゃんがお姉系だったら、彼女の好み(ここではスーツの似合う大人な男系(?)ってことにする)に沿うように自分をそのような男にしなければならないじゃない。でも本当はそんなファッションを好きではなかったならば、それは自分の意志とは反しているのであり、いくら褒められても自信を持つことはできない(場合が高い)。自信が得られないと結局は自分を高めている実感が得られない。そう思わない?

私見だけどさ、上のような好かれるために相手にあわせるような「価値の高め方」は全くもって自分を高めている事にはならないと思うのよ。「自分を高める」というのは「自分を見つめる」ということと似ていて、自分と向かい合って「自分がどういう人間になりたいか」ということを考え、それを実行することだと思う。どういうファッションがカッコイイと思えて、どういう音楽を聴いている自分が好きで、っていう、つまりGenさん式にいうなら、真摯に自己演出のヴィジョンを描くこと、そしてそのヴィジョンに対して妥協無く挑むことなんだよね。

なんか頭ン中でまとまってないまま書き出しちゃったからグダグダになっちゃったけどさ、人の目追いかけて自分を高めようとしても、結局それは自分を偽ったり、でっち上げたり、虚の自分になっちゃうからそれはだめだよね、ってことをGenちゃんの文に付け加えたかったのさ。

そうゆう「外的なものによる自己向上」も「自分を高める」内に入るのかもしんないけど、でも高めてみて、後に残るのは絶対自分を見つめて高めてきた方だよ。

・・・そうだよね、Genさん?

Posted by: 立川のしょうちゃん at November 11, 2005 11:41 PM
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Title: なんか
Excerpt:  最近、知的好奇心がめちゃくちゃ沸いてくる。  自然科学、社会科学、人文科学、全てに興味がある。一生、学生でいるのもいいかも。  ホント、学生時代の大半は何かに追われ続けていたような気がする。今年は純学問的なことに力を入れてみたい。ゆっくり急ぎつつ。...
From: yasuchan's diary
Date: 2005.04.27