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 2003/10/13 (日) 芸術と学問のちがい
「人生と深く切り結んで、ぎりぎりの表現に結晶する芸術は、日常生活ではいい加減に妥協してしまう感情表現をとことん形にして見せてくれる。研究者と芸術家は表現方法としては対極の端に立つが、<とことん形にする>メビウスの輪で結ばれている」「研究者は、語り残された行間をさらに徹底的に<ことば>へと明確化しなければならない。この作業によって研究者の表現は、芸術家の表現とは対極の端に立つ。研究者は、語られない行間を、具体的な証拠に基づいて言語化していく、地に這う作業をしなければならない」(やまだようこ、2001、「カタログ 現場心理学の冒険」金子書房)

▼さぁこの発言を基に思索の海へ沈んでゆこうと思ったんですが、バイトの時間がムーンウォークで近づいてきてしまって。またじっくり考えてみます。


 2003/10/13 (日) 東大後期合格復元答案のセルフ講評。
2005年1月に追記
▼大学受験情報のページに東大後期合格復元答案をup。いまさらながらに何を書いているのか、という感じもするけど、やっぱ受験生のお客さんとか多いみたいなんで、いろいろと不安が募るであろうこの時期にあわせて一筆啓上してみました。お題は「眼の持つ精神性」。もちろん当時のままの文章かといえばそんなことはなく、記憶があいまいになった部分は確実にぶれている。けど、大筋はほぼ再現したと思う。

この文章は ・人間は他者を見るとき、特に相手の眼を見る  ・それはなぜだろうか  ・それは人間の体の中でも、眼が特別に精神的な要素を持つからではないか  ・眼を見ると相手の気持ちや行動を予想できる  ・しかし本当に相手の気持ちを読み取っているのか  ・そうではなく、自分の気持ちを相手の眼に「投影」しているのではないか  ・まなざしの交差が私たちの日常世界を成り立たせているのではないか、というごく単純なことを、具体例を交えながら、繰り返し述べているにすぎません。

これを読んで、「小難しいな」という感想か、「この程度の発想で受かるのか」という感想のどちらかが生じるだろう。ひとつ胸を張っていえるのは、具体的に問題の写真を見ていかに思考したかという形跡を、わかりやすい形で相手に伝えることができたということ。受験情報のページに書いたとおり、「受験参考書などに掲載されている既製の論法に依存せず、自分自身の思考力をもって論理構成すること、換言すれば、借り物でない枠組みを自分で作り上げて論じることが、要するに「自分の体感覚から言葉を発する」ということなのではないだろうか」というくだりを実践したつもりだ。そして、これがおそらく一番大切なことなのだろう。鋭い思考を、試験本番にうまくまとめれる人などたぶん一握り。奇抜な発想などなかなかできない。大事なことは、どこかで見たような文章ではなく、自分自身で考えて論理構成したという足跡を残すこと。これが、合格へと近づくコツじゃないだろうか。この復元答案が安心材料やヒントとなってくれることを祈ります。

>>小論文の書き方、および東大後期小論文のより具体的な分析はこちら


 2003/10/10 (金) 臨床心理学を志す、ということについて。
▼臨床心理学は一時期かなりの人気を博していた。「臨床バブル」なんて呼ばれたりもした。もちろん今でも根強い人気がある。「臨床心理士」という資格がさも素晴らしいものであるかのように語られ、臨床心理士の資格を得ることができる「指定校」に受験生は集中する。ただ、「臨床心理士」という資格には、うさんくさい面も多々ある。まず、これは国家資格ではなくて、あくまで民間の法人の認定する資格にすぎない。その民間の法人とは、かの著名な河合隼雄氏を中心とした「臨床心理士資格認定協会」だ。この法人の大学への干渉は凄まじいといわれている。臨床系(認定協会系)の教授を増やせ、授業名に「発達」は使うな、カリキュラムを言うとおりにしろ、などさまざまな要求を押し付け、それを拒む大学には「指定校」と名乗る権利を与えない。それに反発して、たとえば東大は「指定校」となっていない。しかし大多数の中堅私大などにとっては、この「指定校」の認定が与えられるかどうかが、大学経営の死活問題だ。これほど受験生への宣伝文句となる資格もないからだ。よって、大学の心理学科が、民間の1法人である「臨床心理士資格認定協会」に牛耳られるというおかしな状態が続いている。

このような経緯から、もし「臨床心理士」が、医師免許のように国家資格化される際には、かなりの争いが生じることが予想される。つまり、現在の臨床心理士は、特定の一派に牛耳られた、かなり権力的な「資格」なので、それをそのままの状態で国家資格化するのは、すごく暴力的だということだ。またこの特定の一派には、ユング心理学を好む者が多い。だから、日本の臨床心理学は世界の他の国々のそれと比較した場合、精神分析的なユング心理学に偏りすぎていて、いちじるしくバランスを欠いているとよく指摘される。その反省から最近では、非ユング的な、実証的な方法をもっと取り入れて、バランス良い臨床心理学を構築しようという動きが強くなっている。

たとえば、「指定校」の院に進学したとしよう。勉学に打ち込み晴れて「臨床心理士」の資格を手に入れたとしても、「臨床心理士」として食べていくことは極めて難しい。この現実は、臨床心理士にあこがれる高校生などにうまく伝わっていない。現状では、スクールカウンセラーも含めて、「臨床心理士」はパートとして雇われるのがほとんどで、それはそれは悲惨な生活を強いられることが多いという。さらに近年の臨床心理学ブームのせいで、この領域に携わる者はかなり増えていて、ますます少ないパイを大人数で奪い合う状況が悪化していくと考えられる。

女性の人が、結婚による夫の収入をある程度前提として臨床心理士(カウンセラー)を目指すならば、それは現実的な選択肢だろう。もうひとつは研究者=心理臨床家として、学者の道を同時に歩むという選択肢。あるいは、エキスパートとして、病院の常勤あるいは公務員の心理職を勝ち取るという選択肢。ただし、これはいうまでもなく、非常に狭き門である。院進学の是非を含めて、現実をよく踏まえた上で、将来この分野を志望するということについて考えた方がよいだろう。

▽ちなみに個人的には、研究者=心理臨床家としてやって行く道を考えています。もっとも東大では資格を取れないので、「臨床心理士」の資格はナシで(そのころまでには制度が変わっているかもしれないけど)。しかし、本当に臨床心理学をやりたいのかどうか、そもそも心理学は自分に適したフィールドなのか、最近は悩むことも多々あって、そのことについては、臨床心理学が扱う領域についての私見とともにまた書いてみたいと思います。


 2003/10/09 (木) 最安レンタカー、発見、必見!&学生が事故ることについて。
▼ふと、狂ったようにネットで集中的に何かについての情報をむさぼることがある。そして、ひとたびその何かについてのオイシイ情報を手に入れると、満足して、そのことへの興味をとたんに失ったりする。そんな感じでここ最近吸い寄せたお得な情報を、一挙公開!第1弾は、東京一人暮らしの強い味方、最安レンタカーについて。

2chとかを渡り歩きながら掬い上げた情報は次のとおり。最安は2つある。状況に応じて使い分けよう。まずトクーhttp://www.coo.ne.jp/。たとえばデミオを借りて12時間4000円(免責・消費税込)、1泊2日で7500円(免責・消費税込)、2泊3日で11000円(免責・消費税込)といった塩梅。カーナビは300円/日。激安。

つぎに、おなじみローソンのLoppi http://www4.at-lawson.com/travel/tr_rentacar.shtml。デミオを借りて日帰り4500円(免責・消費税込)、1泊2日で9000円(免責・消費税込)、2泊3日で13500円(免責・消費税込)。カーナビは頼まなくてもついてくることが多いらしい。デート用に優雅にオープンカーのロードスターを借りても、日帰り11000円(免責・消費税込)。洒落っと1日をふかすには悪くない。 なお、Loppiの方が一見高く思われるが、トクーの方はシーズンごとに料金が変わるという欠点があり、夏とか異常に高くなってしまうので、年中同料金のLoppiのほうが安い場合も多々ある。両者をじっくり比較すると幸せになれるだろう。この2つより安いのをご存知の方は、こっそり教えてください‥。心より情報お待ちしております。

▽なお、ふたつのプランにはすでに含まれていたが、免責保険加入は激しくオススメ。もし入っていなく事故った場合、ほぼ確実に15万近く飛んでゆくことになる―――蒼白な顔で、レンタカー契約書類をめくることになる。最近、強く思うのは、自分の収入(持ち金)に見合った運転をしろ、ということ。スピード出してぶっとばす、カーブでGの限界に挑戦する、どれもこれもマジで楽しい。けど、事故って、特に相手を巻き込んだ場合、金銭的な保証という問題が必ず起こってくる。事故の際の金銭的負担という責任を負う能力もないのに無茶運転するのは、ただのガキだなって強く感じる。学生で、突然100万近く請求されて蒼白になるようなら、身分をわきまえるべし。身分に応じて運転が変わってくる。車社会は、ため息混じりの階級社会。これ定説。自分の方が過失割合が多く事故るときは、必ず自分が調子に乗っている。んで、突然、魔が差す。何かに吸い寄せられるように衝突する。自分のケツは自分で拭けるような運転が、最低限のモラル。免許取得後1年以内のヤツは、調子に乗りやすいから、事故を1度も起こしていない方がよっぽど怖い。色々思うところがありましてね‥


 2003/07/22 (火) 前の恋人を「忘れる」?
▼最近ようやく吹っ切れてきたんだ、とヤツは言った。「前の恋人を忘れてあらたな恋に燃えるぜ」。”忘れる”?んなこたぁない、とタモリ風に思った。

▽人が人を必要とするのは、他人なしに自分の存在を確認することができないから。自分のことを大切に思い必要とする人たちを見てはじめて、人は自分が「必要な存在なんだ・生きるに値する存在なんだ」と知ることができる。つまり、自分とは、「他者の他者」。で、家族や友達や恋人は、それぞれ「自分」という人間の中身を与えてくれてる。恋人はその中でも特に、密に自分と関係を持つから、特別な「オレ=わたし」を与えてくれてる。だから心地いいし、燃え上がるし、忘れがたい。

今までで一番好きだった人、その人が与えてくれた「オレ=わたし」はもう二度と手に入らない。それはその人だけが自分に与えることができたもの。だからこそ、ひきずる。ひきずって、苦しむ。前の人に似た人を探し、面影を追い求める。でも、それと同じかそれ以上素敵な「自分」を与えてくれる人が、この先現れるかもしれない。あらたな「自分」を与えてくれるその人、そしてあらたな「自分」に心奪われたときにはじめて、「これで前の人を忘れられた」という感覚が自分の中で起こってくるのだろう。

でも忘れちゃならない。それは「前の人を忘れて次の恋にすすんだ」わけじゃない。前の人が与えてくれた「自分」の痕跡は、そのまま自分の中に残っている。前の恋で気づかされた自分の嫌な面は、そのまま忘れることはないだろう。そして、次の恋では、それを直そうと試みるだろう。

前の人、前の人が与えてくれた「自分」はそのまま残っている。あらたな人、あらたな「自分」は、その上にどんどん積み重なっていく。地層のように、地球の歴史のように、次から次へと上へ積み重なっていく。ただ、積み重なって下のほうへうずもれていくと、その存在に気づかなくなってくる。沈んで、写真を見ては、かすかに堀り出して‥


 2003/07/19 (土) 「リアル」とはどういう感覚か?……イラク戦争から考える@
▼今日はひさびさに家でゆっくりと過ごすことができた。最近のお気に入りはインターネットラジオ。世界中にある無数のネットラジオ局にアクセスすることができるので、自分の聴きたい曲を聴きたいときにタダで聴くことができる(自分の場合はジャズ中心)。いわば無料の「超」有線といった感じ。常時接続の人はこれを楽しまない手はない、ホントに。パソコンについているヘッドホン端子とステレオをケーブル(¥800程度)で接続し、大音量で楽しむのがオツ。瞬時に超マニアックがやってくる。無難なオススメは accuradio

▽ところで、ふとイラク戦争を思い出してしまったので、そのことについて書こうと思う(「ふと思い出す」という単語が出てくるほど、すでに忘れられてしまった出来事?ところでアフガニスタンはどうなった?)。戦争の映像に「すげーリアルだな」と興奮しちゃった人は、今日の文章をぜひ読んでみてください。前回の「苦悩と癒しの文明的意味V」については、また後日。ごめんなさい。

イラク戦争当時、テレビの画面は、爆撃シーンや戦闘シーンを、かつてないほどの規模で、まざまざと私たちに見せつけた。私たちはそれを見て、「やっぱ現実に起こっている出来事は違うな」「さすがリアルな出来事だ」「フィクションじゃないからな、これは。重みがあるよな」などと思っていたはずだ。しかし、本当にそうか?私たちが目撃した「イラク戦争」は、かなりの部分がフィクションだったのではないか?というのが今回イイタイコトだ。

考えてみよう。テレビ画面は「現実」を映し出すことができるだろうか?質問を置きかえてみよう。あなたが、「自分の通う学校について、その学校を知らない人に伝える」という目的でテレビカメラを手に取ったとしよう。その際にいろいろなことを考えてしまうだろう。どの建物から先に写すのか。どんな人物を中心に紹介するのか。撮ったそれぞれの映像を、どんな順番でつなぎ合わせるのか。なぜそんなことを考えてしまうのかといえば、それらは学校の印象を大きく左右するからだ。また、誰が映像を撮影し編集するかによっても、学校の印象は大きく異なる。つまり、学校を「ありのままに」伝えることなどとうてい不可能、ということはすぐにわかるだろう。

わたしたちは何を「現実」だと認識し、何を「リアルだ」と感じているのか?わたしたちは毎日情報を与えられながら生きている。テレビ、新聞、ネット、読書‥。そのなかでも大きな役割を占めているのは、マスコミだろう。ニュースは現実を映している、ニュースはリアルであるとわたしたちは思い込んでいる。ニュースはフィクションなのだと考えているのは、へそ曲がりな一部の人だけだろう。しかし、ニュースは、もっとも控えめにいっても、「現実」を映し出しているとはいえない。

さて、イラク戦争だ。私たちにとってのイラク戦争は、主にマスコミが伝えるものでしかなかった。学校の例を考えてもわかるように、イラク戦争にまつわる報道は、あらゆる意味でフィクション――虚構――だったといえるだろう。まず、映像のソースの大半はアメリカ軍だった。当事者のアメリカ軍は、情報をかなり自分の都合に合わせて選択しただろう。米軍によるイラク「開放」の際にバグダッド市民がフセイン像をなぎ倒して喜ぶ様子が報道されたが、米軍が市民を扇動・指揮していたと指摘する専門家も多い。アメリカ軍は、イラク市民などを用いて映像を「演出」することができた。さらに、何を写すのか、どのように撮られた映像をつなぎあわせるのか(カット)、その中からどれをマスコミに公開するのか、を決定することができた。――つまり、アメリカ軍は「現実」を創造することができた。そして、アラブ系の放送局である「アルジャジーラ・テレビ」と米「Fox」や「CNN」のニュースを見比べればわかることだが、放送局によっても伝えられる「現実」はまったく異なってくる。映像には常にイデオロギーが混入し、制作者自身も自分自身が生み出しているもののイデオロギー性に気づいていない場合が多い。

ニュースそのものが持つ本質的なフィクション性に加えて、イラク戦争では「報道の自由」すら保障されず情報は主に米軍の統制下にあった。あらゆる意味で、私たちがイラク戦争に関して知っていることは、「現実」とはかけはなれたものである。でも、驚くべきなのは、それなのに、わたしたちはイラク戦争を「リアルなもの」だと感じてしまった、ということだ。本当のことはなにも確かにわからないのに、そして実に根拠の乏しい情報しか与えられていないのに、私たちは真剣に「現実」を語り合った。イラク戦争は「リアル」だと興奮した。では、わたしたちにとっての「現実感」とはいったい何なのか。「リアル」と感じるということは、どういうことなのか。次回、じっくり考えてみます。(Columnは週2〜3回程度更新)


 2003/07/12 (土)  おわび
▼ちょっとテストの都合と、接続環境を光にしたのでファイアーウォール構築する必要があるため、3日ほど更新を休ませていただきます。


 2003/07/10 (木)  苦悩と癒しの文明的意味A

▼昨日書いた内容↓について少し考えてみたいと思う。まずそちらを先に読んでみてください。まぁまじめな話ではあるので、興味のない方はすっとばして浮遊してくださいませ。

▽もっとも心に残ったのはCの論点だった。現在の社会を大きく規定するものは政治でも理念でもなく、経済であるが、その資本主義経済は、<他者の視線>によって自らの身の処し方を決めることを強要する。経済的に右肩上がりで成長しているうちは自らのアイデンティティについて問う必要はないが、たとえばバブル崩壊のように、ひとたび経済的成長が行き詰った場合、人々は次にどのようなアイデンティティを獲得しうるのだろうか。

経済的なアイデンティティとは、<他者の視線>によって自らの存在意義を規定するものだった。とすれば、ポスト資本主義的なアイデンティティとは、<他者の視線>によって自らの存在を規定しないものになるのか?そもそも、そんなことは可能なのか?私の属性は――身長、優しさでさえも――いつも他者と比較することによって決まっている、すなわち、<私>は<他者の他者>以外ではありえないというのは定説ではないのか?他者との比較が行われないところには、いかなる価値も生じ得ないだろう。

こう考えると問題が鮮明になってくる気がする。つまり、自分のアイデンティティはいかなるときでも<他者の目>を通して獲得されるのだが、資本主義的な価値観に生きる人々がアイデンティティを形成する場合、なにか特異的に<他者の視線>を気にしてしまうのではないか、そうだとすればそれはどう特異的なのか?ということである。

ここで↓Aの論点が登場する。資本主義的な<他者の目>は、お金に最終的な価値を置いている。しかし、パレスチナ人的「オリ−ブの木」のような価値観に基づく<他者の目>は、お金に最終的な価値を置いているわけではない。では、「オリーブの木」を金額という<他者の目>に基づいて評価するということは、どのように特異的なのか。貨幣論とも絡む話だが、お金という他者評価のあり方――まなざし――はいったいなにが特徴的で、なにを語るのか。次回に続く‥


 2003/07/09 (水)  苦悩と癒しの文明的意味@

▼今日は田口ランディとか猪瀬直樹とか内山節などが来る例の授業があった。今回は上田紀行という東工大の文化人類学者がメインホストを務めた。ちなみに彼は「癒し」という言葉をはじめて用いた人らしい。「癒す」「癒される」という動詞形は元から日本語として存在したものの、「癒し」という名詞形でこの概念を公に用いたのは彼がはじめてという(1988年11月10日讀賣新聞夕刊)。その彼が「苦悩と癒しの文明的意味」というトピックでレクチャーを行った。その後議論の時間があり、それは少々噛み合わないもので、相も変わらず猪瀬直樹は構造改革にすべての話を結び付けるなど、少々あくびの漏れるものだったのだが、とにかく、そのなかでも印象に残った各発言をピックアップし、それについて少々考えてみたい。余談:猪瀬直樹は休憩時間に一緒にタバコを吸っていたんだけど、携帯に電話がかかってきて「TVタックル・タックル!」と連発していた。なぜ連発‥

▽@不況不況と叫ばれるが、街を見渡してみればヴィトンのカバンはあちこちにあふれ、人々は笑顔で闊歩している。「これのどこが不況なのか」ととある国の人に訪ねられたという。現在の日本は、真の不況というには程遠い。むしろ、人々が生きていく<意味>を喪失しているという、「<意味>の病」のほうがよっぽど深刻な問題なんじゃないだろうか。(上田)

A9.11のテロが明らかにしたものは、なによりも<普遍性>と<ローカル性>の対立構造だったのではないか。すなわち、あらゆるモノ・コト・ヒトをグローバルな資本主義経済に回収しようとするアメリカ的<普遍性>と、地域固有の論理のあり方を主張する<ローカル性>との対立。 たとえばパレスチナ人にとってオリーブの木は
非常に重要な意味を持つのだが、アメリカ的資本主義から言えば、オリーブの木なんて一本数万円の価値しか持たない。そこには2つの論理の争いが見て取れる。2つが定義する<意味>の構造がそもそも違うのだ。(上田)

Bマックの法則、というのをご存知だろうか。マクドナルドのある国どうしは絶対に戦争をしない、という法則だ。マックがある国というのは、基本的にグローバル資本主義国家である。資本主義国家は、「世界中からの投資をいかに呼び込むか」ということを国是にしている。だから、世界からの評価を常に気にしている。したがって、投資的にマイナスになるような戦争は行うことができない。

Cここで明らかとなるのだが、資本主義というのは、他者から評価 されてこそ意味を持つものである。他者からの評価を基準として行動を決定する。他者の目に生きる――「あるがままの私」の抑圧が生じる。そうであるとするならば、バブルの崩壊という事実はどんな意味を持つのか。これは実に興味深い。

それは、「いい子の悲劇」とでも名づけられるものである。具体例で考えてみよう。バブルの時代に投機的に買った土地というのは、基本的に自分が本当に欲しい土地ではなかった。それは金を生みそうな土地=資本主義的に意味ある土地=<他者が欲しい土地>であった。しかしその土地の価格が崩落すると悲劇が生じる。なぜなら、本当に自分が欲しいわけではなく、他者の目(資産的価値)を基準にして購入した土地は、それ自体に本源的な価値を持たないからだ。経済がどんどん成長する、右肩上がりの時代は良かった。しかし、ひとたびそれが行き詰まり<他者の欲望(資本主義的価値)を生きる>という私が機能しなくなると、@で述べたような「意味の病」が生じてしまうのだ(上田)。これをどう超克するのか。

D私と公なるものとのつながり(対人関係の距離感)を整理するにあたって、「近景」「中景」「遠景」という区分は有効だ。「近景」(皮膚感覚でお互いに感じ取れる距離)、「中景」(家族や地域社会といったいった共同体的な対人距離) 、「遠景」(神秘的なものや占いを信じるような態度)に分けたとき、現代は中景が崩壊しつつある時代だと考えることができるだろう。地域共同体や学級は崩壊し、終身雇用は崩れつつある(詳細についてはこちら)。このことをナショナリズムとの関連で考えると興味深い。中景が崩壊しているがために、グローバリズムへの対抗手段として、人々は国家という遠景にしがみつくのではないか。これがナショナリズムを生むのではないか。すなわち、グローバリズムとナショナリズムは表裏一体のものなのではないか(もっともこれは繰り返しいわれてきたことではあるが)。

▽ちょっと疲れてしまったのでこれらの発言を検討することは次回にまわさせていただきます。何か思うところがあればメールを是非!


 2003/07/07 (月)  七夕にパワーポイントの反省を

▼注:今日のコラムはパワーポイントおよびプレゼンテーションに少しでも関心がある人だけお読みください。今日ゼミでプレゼンテーションがあった。パワーポイントを用いた。もちろんこれがパワポ初体験ではない。ただ、パワポは日を追うごとに俺にまとわりついてくる。ますます、その奥深さを露呈してくる。そう、プレゼンテーションやパワーポイントは奥が深い。そこで、雑感と、今日の反省と、感想と。

▽パワポ思うこと

プ レゼンテーションをいろいろな機会で重ねるにつれて、悩みが立ち現れてきます。それは、パワポにどれくらいの情報量を詰め込むか、ということ。スクリーン(1スライド) に文字が多いと、聴衆はそれを読むのに追われるため、あまり話を聞かなくなります(聞きながら同時に読むのはつらいもの)。あるいは、 もし配布資料としてそのスライドを印刷したものを配った場合、「あとで読めばわかるじゃん」という感じで、発表を「聞かなく」なってしまう。

しかし、パワポに情報をたくさん載せるということは、非常に「わかりやすい」プレゼンテーションにつながりやすいのもまた事実です。聴衆は、新情報(自分の知らない情報)を「目で見て」 確認することができるからです。「聞く」よりも「見る」ほうが、とくに今まで自分が知らなかった情報を得る場合、わかりやすいのです。

もっとも、俺の目下の目標は、箇条書き程度の簡素な情報ををパワポに載せ、その中身は口頭で説明するようなプレゼンテーション。しかしそれを実現するためには、本当にわかりやすいプレゼンテーションのスキル・話術が必要になるのでしょう(うちの立花教授推奨のやりかた)。何よりもこのやり方だと発表者に注目を惹きつけることができるため、顔を売り込むことができる。これは超重要、でしょう。

▽今日のプレゼンの反省

練習の段階で自分の中にちょっとでもあいまいなものを残せば、本番ではそこから崩れてく。何事もそうだろうけど。準備の段階で自分の中に妥協を残せば、会心のプレゼンをおこなうことなどできない。本番の緊張を見越して倍準備をすること。リハーサルを面倒くさがらずきちんとおこなうこと。反省。また、発表者メモとスライドの内容・順序はできるかぎり近づけたほうが良いとあらためて思った。今まではパワポのスライドに情報を詰め込み、スライドを読みながらプレゼンをおこなってきた。しかし、さっき述べたように、スライド自体は簡素化するために、今回は発表者メモを別用意した。だが、あたふたと両方を見失ってしまう結果となった。おそらく、スライドをいったん印刷して、そこにメモを書き込んでいくのがいいのではないか。あるいは、パワポの「ノート機能」を使いこなすことができるんだろうか。次回への課題。

▽そもそも

そりゃデートしたいし飲みたいし買い物したいし、完璧と言える段階まで、たったひとつのプレゼンのために力をそそぎこむわけじゃない。だけれども、だがしかし。真に練習になるのはおそらく力を尽くしてその上で失敗したとき。中途半端な本番を繰り返せば、中途半端にしか上達しない。プレゼンのスキルが。次回はちょっとやってやろーと思った。全力ぶつけて、限界に殴られるのを待つ。

あと、今日一日タバコがかなり心の張り・心の前のめりをほぐしてくれたな。サンキュ


 2003/07/04 (金)  つまんない生き方とは

▼相も変わらずイチオシのコンテンツ、
インド旅記。 特に第5章は、気持ちに咽ぶのでぜひ。

▽つまんない生き方について考えてみる

一番つまんない生き方は、将来の目標を明確に立ててそれに向けて一直線で進む生き方だと感じる。なぜなら人間はそんなたいした発想はできなくて、目標も小さくまとまりやすいから。根本のところでは川の流れに身をまかせ、いろんな回り道をして、でも目の前に岩があらわれた時は全力でそれに立ち向かい課題をこなし(自分が岩に砕かれないように)、めぐりめぐりやっていくのが良いかと。なにより器がでかくなって、強度ある人間になれそう。そう、「強度」という単語はあるとき(心理学科で唯一哲学的にもインスパイアされる)野村くんからもらったんだけれど、本当に俺の人生のキーワードになりつつある

こう生きるべき道なんてない。流されていくのが人生で、ときどきどこかに引っかかったときに、すごい充実感を感じる。でもまた流れてゆく。流れてゆく。流れてゆく。その繰り返し。もちろん「無駄」もない。

でも、それと「甘える」とゆうことは別のことで。面倒くさいからって易きに流れれば良いわけじゃない。だから俺の人生格言はふたつ。

「なるよーになんじゃん」

「自分に同情するな」

そう、こう生きるしかない。でもどっかで挫折するだろう予感は腹の底に重く溜まりつつ‥





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