India (5)  

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  翌日も、陽射しは強暴だった。1リットルの水を片手に、ガンジス川のほとりへと向かう。ベナレスは伝統と歴史が根を張り巡らせている街だ。でも、その数々の根を、ひとつずつ愛でにいく気はしなかった。普通の街並みが、川が、呼んでいた――ただふらふらと歩き回りたかった、ひとりっきりで。

  午前中は、陽が高さを増すにつれ川が徐々に白くなってゆく様を、沐浴場に腰掛けて眺めていた。ときおり小さな子供がやってきては、ボートに乗らないか、花を買わないか、神様買わないか、と語りかけてくる。本物の神様なら買うよ、と応じる。本物の神様だ、と目を輝かせる。なにか素敵な気分になったので、5分の1まで値切って、神様をポケットに忍ばせた。

  ひとつ印象的なエピソードがある。ウルルン滞在記のような素敵なおはなしだ。おそらくあれは、スラム街だったのだろう。何かにとりつかれたように、足が、止まるということを知らずに彷徨っていた。茶色く錆びた看板、道路の隅に立ちすくむ崩れかけた神様、白壁。ひとたび太陽が射し込めば、街角に圧倒的な存在感が宿る。そこだけが、スポットライトを浴び、地上から僅かばかり浮いてしまったかのように。細い路地をゆけば、両脇はインドの生活のショーケースだ。男二人が語り合う、噛みタバコを吸う、そして僕も一緒にテレビを観る、チャイをすする。通り過ぎる子供たちは、はにかみながら、ときには挑発するように、「Allo!」、と弾けた声を投げかけてくる――そのときの恥らうような笑顔ときたら!街は狭く汚く、でも、ひどく美しかった。旅人の心は満たされていた。観光地をはずれスラム街に迷い込んだ僕は、ようやく普通に接してくれる人々、子供に触れたのだ。3時間は歩いただろうか。子供たちはひとたび集団になると、好奇心のかたまりになる。それにちょっとした勇気も持つようになる。僕の前に立ちはだかった彼らのうち、薄く茶色がかった髪を短く刈り込んだ少年が、英語で尋ねてきた。どこの国から来たのか。何歳なのか。何をしているのか。

  インドには、ヒンドゥー語を主として、100を超す言語がある。それぞれの言語が、それぞれの地方に根付いている。それは方言といったものではなく、全く異なった種類のものだ。そう、インドには国の共通言語が無い。国としての統一性が保てない。そこで、英語、である。旧宗主国の言葉、英語が唯一インドを束ねる。歴史はいつも皮肉を産み落としてゆく。ひたすら汚い夜行列車に揺られながら、興味深い体験をしたことがある。同じコンパートメント内のインド人が会話していた。彼らは、英語とヒンドゥー語をごちゃまぜでしゃべるのだ。50%ぐらいの頻度で混ぜ合わせながら。「So, I think that Indian goverment should %'('&=#!'%$#!"$& for the future」どうせ日本人が英語を解せるなどとは思っていないだろう、盗み聞きだ、と得意になっていたのもつかの間、不思議な感覚に襲われることとなる。ひとりが電車を降り、僕が話し相手となった。妻をさかんに自慢する。聞いているほうとしても、悪い気はしない。「恋人はいるのか」、という。「いる」、と答えると、「日本かインドどっちにいるんだ」、と言う。芽生える少々愉快な気持ち、そして親しみ。恋人がいるならなぜ一緒に旅をしないんだ、と問い詰められる。たしかに、同じぐらいの年代でも、一緒に旅する恋人たちをしばしば見かける。おまえは、と彼は言う、本当に恋人のことを愛しているのか。毎日電話をかけているのか。本当に大切なものは大切に扱わなきゃダメだ、と。しばし物思いに耽る。大切すぎて距離を取れなくなることが怖い(So cute to blind me, not being able to keep proer distance, that kind of thing is paticularly dreadful)、と僕は言う、でも毎日想ってる(She is by me at some moment, all the day during this journey)――最後の夜に、インド滞在中唯一の豪華なディナーを、小奇麗なレストラン(客は自分ひとりだけだった)でとりホテルに戻った僕は、彼の言葉に拠って、電話をかけた。でも、翌日、通話料請求書の金額を見て、少々血の気が引いた――「慣れないことはすべきじゃないな」。話はまったくそれた。英語の話だった。インドで英語を流暢に扱えるのは、せいぜい中産階級以上だ。そして英語を扱える層は、経済的にも、圧倒的に有利である。言語差は、格差を生む。彼、薄茶の髪の少年は、その集団の中で、唯一英語をしゃべることが出来た。彼を先頭に、15人ほどが群がる。それはまさに、代表者質問――いや、彼はちょっとした翻訳者とでもいうべきか。でも、意気揚揚とした他の少年に比べ、彼だけがはにかんでいた。好感を持った。ひとりの少年が木の実を剥いて、食え、という。誰かが路上販売のアイスを買ってきて、食べてみ、という。スラム街の路上販売、汚い手に握られた得体の知れない木の実――下痢の記憶、理性が押しとどめようとする、が、好奇心が手を動かす。そこらへんは割り切るしかない、きっとノリなのだ。

  彼らに手をとられ、秘密の裏道をくぐり抜け、ガンジス川へと行きあたる――いままで見たことの無いガンジス。なにか日本の歌を歌ってくれ、という。こういうときに、驚くほど頭は働かない、適当な唄は浮かんでこない。苦し紛れに『抱きしめたい』を、ガンジス川のほとりに響かせる。拍手喝采、でも少し不満顔。踊れる歌がいいんだ、という。インドのダンス熱は尋常じゃない。心したほうがいい。日本のダンスナンバー?えっ?…☆そのうち誰かが、インドの有名なダンスナンバーを歌い始めた。皆が踊る。まわりにいた子供たちまでもが踊る。僕も、踊る。評判はよかった。ときに、腰を突き出す動きが。みんながまねをする。汗をかく。バカだ。でも、一言、楽しかった。何かが弾けた。伝染病の心配も吹き飛び、ガンジス川をともに泳いだ。おそらく、名も知れぬ死者も共に――排泄物、聖者の灰、渾然一体とした液体、体をしっとりと包み込むような感触。川から上がると、ハエがやたらと体をたかった。ひとりの少年が手を握った。指間に指を絡ませる、あのやり方で。仲のよい男二人が手をつないで歩く――インドではありふれた光景だ。でも、慣れていないからだろうか、不思議なエロスが体を駆け巡る、でもそれはほんの一瞬のこと。彼の家に招かれ、食事をごちそうになる。会話は、共通言語が無いので、ない。でも、彼の家族も含めて僕たちは、会話のようなものを繰り返した。狭い部屋で、夕日が射し込んでいて、蒸し暑くて、白いシャツの袖で汗をぬぐいながら考える。これが旅だな、と。


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