June 25, 2004

自分の存在を賭けて解釈する

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/040623さんよりコピペ。下線部強調部Gen.

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svnseeds
『どうもです。人間には人間としての認知の限界があり、故に世界を総体としてでなくモデルとしてしか認識できない、という点は激しく同意します。ただ、そのモデルを構築した主体は限界のある人間の認知活動であるため、その限界の故にモデルが正しいかどうかを判断することはできない、とするのはどうでしょうか。その批判そのものがトートロジーに陥っている点はおくにしても、その立場では今までに蓄積された自然科学/社会科学の様々な知見を説明することが出来ないのではないかと考えます。▼認知の限界を打ち破る方法として、科学は実証やピアレビューという方法論を発達させてきたわけで、そうした方法論の有効性を否定するのに、モデルの検証はトートロジーであり不可能だ、とするのはあまりにnaiveだと考えますがどうでしょう。▼唯一その批判が妥当する状況があるとすれば、すべての人間が過去・現在・未来のすべての時間に渡って完全に等しく認識する現象のモデル化についてでしょうが、我々はその現象を世界なり自然なりと表現しているわけで、結局僕には何も言っていないように思えてなりません。▼少子化傾向のデタラメなモデルにせよゲーム脳にせよ、それらに対する真っ当な批判が存在する限り、モデル検証のトートロジーの罠のはるか手前に我々はいると僕は理解しています。つまり「やってみるしかない」以前といえます。いかがでしょう。▼余談ですが、価格と通貨量をトートロジーとするのは貨幣ヴェール説といいまして、ケインズ以前の経済学であり、つまりマクロ経済学ではありません。貨幣ヴェール説は長期においては妥当するが短期・中期では妥当しない、というのが現在のマクロ経済学の(流派wを超えた)理解です。▼論より証拠。大幅な財政政策と金融緩和で景気回復しつつある米国、通貨ペッグにより中銀の仕事を米国にアウトソースしてデフレ脱却・今度は景気が過熱しすぎてしまった中国、中銀がまともな仕事をしないおかげで未だにデフレを抜けられない日本、すべて貨幣ヴェール説では説明がつかず、一方入門用マクロ経済学の知識で説明がつくものです。▼ってまた長くなってすみません。』

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finalvent
『svnseedsさん、ども。ええと、私が誤解しているかもという留保は大きくするのですが、svnseedsさんの基本的な主張にはちょっと誤解があるかと思うのです。その中心はセンスデータと「時間(可逆性)」です。このあたりは、ちょっとテクニカル(哲学的に)な話でもあるんですが、簡単に言うと、svnseedsさんは素朴実在主義なんですよ(むっとされたらすみません、あえて戯画的に言うのです)。実在をもって検証可能だというわけですね。それに対して、私の思索では、実在を基本的に排除し、それをセンスデータ(簡単に知覚・認知と言ってもとりあえずいいです)としているわけです。で、知覚というのは、我々の実は生の志向性としての快・不快でもあるのです。で、モデルと理論のトートロジーのセットに対応するのは、実在ではなく、こうした好悪のセンスデータです。▼ただ、個別にマクロ経済についての、通貨と価格については、概ねsvnseedsさんの言われているほうが正解だろうとは思うのですが、この点については、ちょっと疑問は残ります、と言って、前回、米国の雇用について自分の勘が外しているのでなんとも言いづらいのですが、この問題は浅田彰ふうな超システムの問題ではないか、と。つまり、モデル自体に超システム(たぶん、全体を再帰的入れ子にするようなトラップがある)のでは、というと曖昧過ぎるのですが。▼話を戻して、モデルと理論のトートロジー性ゆえになにも言えないのではなく、人間の生命的な知には「企図性」というものがある。つまり、サイコロの目は1/6は命題ではない。が、それを「私の生(life)」が命題として受け止めようという決意です。カント的な意味での自由でもありますが。▼明日雨が降るかも知れない(科学言明)、というとき、確率とは、ある妥当なコミュニケーションの指標となります。その意味で、妥当な世界の合意というのが社会学的な確率性の意味であり、モデレートな「企図性」です。って、話が、なんだか、現代哲学的に曖昧ですが、ようするに、そうした企図性(言葉が拙いですが)、自分の命を賭ける自由と他者との共同性の意識というものが、科学の根底にあり、それが意識化されないと、実在主義に堕するのです。え? なぜ実在主義でははいけないのか? いけないんですよ。人生には希望があるからで、実在主義とは破滅していく巨大なからくりです。』

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essa
『内容でなく難しさを簡単に説明するのも難しいですか。「このへんに非常にデリケートで難しい問題がある。うっかり手を出すとヤケドする」という認識くらいは、一般常識として、せめて理系でも頭いい人には持っていてほしいなと思います。▼「人間の生命的な知には「企図性」というものがある」という表現には、すごく共感するのですが、ウェーバーはこういう感じなんでしょうか?』

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finalvent
『essaさん、ども。なんかドツボっていてお恥ずかしい。基本的に現代、とくに米国的なアカデミズムの流れで見るなら、自然科学と社会科学は方法論的に同じと言っていいと思います。つまり、それは、モデル化+数量化=対象操作可能、ということです。そして、その対象操作の予測に対する正否で理論の良さを評価するというのも同じです。すると、つまるところ、社会科学と自然科学は。対象の違い+その学問の派閥の歴史的な経緯、ということになります。逆に言うと、現代はそうなってしまったので、自然科学と社会科学の違いの議論はこの土俵では無意味に近いということになりました。▼マックス・ウェーバーが社会科学と自然科学は違うのだ、ということにものすごい知力を傾けたのは、自然科学としてのマルクス主義に対抗しなくてはいけないという課題があったためです。少し話がそれるのですが、ポパーなども反マルクス主義ですが楽観的にそれは根本的な誤解だと頭ごなしに批判していきます。▼社会科学と自然科学の峻別が学問の課題になるというのは、前世紀におけるマルクス主義の受容に大きく変わっているという歴史背景があります。実際ところ、社会に応用されたマルクス主義というのもは社会を自然対象のように操作しようとするわけです。この点で、ケインズ以降のマクロ経済学も類似の側面があります。▼マックス・ウェーバーがこう言っているというわけではないのですが、私なりに簡単にまとめると、自然科学と社会科学の違いは、モデルの扱い方です。どちらもモデルを立てるのですが、自然科学は実験によるモデルの妥当性ということからモデルを評価していきます。これに対して、社会科学のモデルというのは、社会とはあくまで人間が組織したものですから、その人間の行動を支配する思考のモデル(これをウェーバーは理念型と言います)ということになります。漫画化した例では血液型も理念型の一つです。A型はこういう行動をする、というわけです。そこで、こうしたモデル=型の思考の内部に研究者が入って、どのように行動するかを自分の主観で考えてよいのだ、というのが、ヴェルト・フライハイト(価値自由)ということです。主観なんだけど、理念型の縛りを掛けるところがところが社会科学だということです。そして、このように自分の主観と別の主観を許すというのもヴェルトフライハイトでもあります。▼このように、複数の主観が許せる世界というのをウェーバーは「神々の闘争」ととらえていて、つまり、唯一の価値がないから、それが可能になったのだということです。つまりをかさねますが、つまり、自然科学と社会科学の差異は、後者は自己の主観を理念型によって縛った理念によって相対的に自覚されるということです。自然科学では、自己の主観は巧妙なかたちで客観に似たものにすり込まれます。が、それらは、同一の評価基準によって争うことが可能です。社会科学にとっては、そのような評価基準ではなく、歯止めのある主観同士の向きだしの争いになる、そしてそのことを自覚するということです。▼とはいえ、話が戻りますが、現在の米国風アカデミズムの世界では、社会科学は限りなく自然科学的に振る舞います。▼それでいいのか? そこ(現代の学問)に陥穽はないのか? あります。単純に資本主義・自由主義の興隆という例が面白いでしょう。マクロ経済学的には中国を発展させることや日本経済を立ち直らせることは、単純な教科書の応用であり、国家側の操作性に委ねられることいなります。つまり、ここでは、国民はどの国民でも同じ、のっぺりとした対象です。しかし、ウェーバー流の社会科学ではそのようなことはありません。原始蓄積を可能にし生産を禁欲的に行うエートス(精神性)をもった国民性の出現というものが資本主義の興隆の条件となって現れます。この点で、ヴェーバー的に言えば、中国は資本主義にはなりません。そんな馬鹿な? そんなのは学問めいた冗談ではないか? …私の人生のうちにこの中間的な結論を目にするだろうとは思います。』

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svnseeds
『ご丁寧にどうもです。なるほど、「人間の支配の意図」とか「我々の『生』の構造における機械性」とか、よくわからんなーと思ってすっ飛ばしてた部分がまさにキモだったんですね。わはは。▼僕の主張(というほど大げさなものではありませんが)に対するfinalventさんの理解は間違いないと思います。finalventさんの用語で言えば、僕はセンスデータと実在は不可分なものだと考えており、両者を区別することの意義がわからない者です。素朴実在主義かどうかはわかりませんけども(笑)。▼両者を区別するのは、例えて言えば、「光が存在しないとき、物質は何色に見えるか?すなわち物質の色そのものとは何か?」を問うことに似ていると思いました(ちなみにこの問は僕が小学校の頃に悩んでいたものです(笑))。僕が得たとりあえずの結論は、「光がなければ色はない。物質の色そのものを問うことに意義はない」というものです。▼そしてここで言う光とは人間の認識であり、色とはfinalventさんの言うところのセンスデータであり、物質の色そのものとは実在なのだろう、と思った次第。色と色そのものを区別はするけど、その区別に意義はないとするわけです。ってあーやっぱり素朴ですかね?わはは。▼あと、実在主義と希望が相容れないものである、って点もよくわかりませんでした。恐らく説明していると本が一冊書けてしまうだろうと思われるので、これ嫁ってのを教えていただけるとありがたいです。▼別件ですが、マクロ経済学が社会を自然対象のように操作しようとすることの問題というのは、操作する主体が国家であること、なんでしょうか?更に別件、中国はずっと共産主義だったわけではないので、僕は非常に楽観的に見ています。単純に台湾、香港、シンガポールと比較するわけにはいかないでしょうけれども。中間結果が楽しみですね。』

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finalvent
『svnseedsさん、ども。ちょっと意地悪な問いかけに取らないでほしいのですが、量子力学の「ベル不等式」というのを知っていますか? と訊くのは、これを知らないと、実在だのセンスデータだのという話の現代的な意味はほぼないんですよ。見えるものと実在の差みたいなのは、古典的な世界においては、ある特殊な哲学的な志向の人の課題に過ぎないし、そんなものまるで意味ないと言ってもいいくらいです。ただし、古典的な世界には超越者が想定されていました。人類が「ベル不等式」というのを知るに至り、実在とはどうしようもなく奇っ怪なものとしか言えないということになってきました。もうちょっと意地悪な言い方をすると、「ベル不等式」を知らないのは、この宇宙に生きる意味の幾ばくかを失っているに等しいです。で、ご存知なら、ベル不等式が示す、我々のセンスデータを越える世界をどのように理解しますか? このあたり、量子力学のプロパーは単に式を示すだけです。式が認識を表すQ.E.D.というわけです。しかし、それは、端的に言えば、数式が扱えるといういわゆる理科系であることを誇っているだけで、式の意味を認識しているわけではありません。「ベル不等式」自体は技術的な意味での量子力学には重要でもなんでもありません、と過ごしてしまうわけです。』

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svnseeds
『どうもです。えーとですね、なにぶん教養が足りませんで「ベルの不等式」は寡聞にして存じ上げなかったわけですが、色々ぐぐって調べてみたところ、「ベル不等式が示す、我々のセンスデータを越える世界をどのように理解しますか?」に対する僕の回答は、端的に申し上げれば、知ったことか、ですかね。▼というのも、ベルの不等式を持ち出すべくもなく、我々の認知に限界があるのは明らかなわけです。そんなのは元から大前提ですよ。ベル某がなんと言おうと、僕の世界は意味に満ち溢れていて豊饒至極です(笑)。▼その上で申し上げたいのは、そのような限界があるが故に(自然/社会)科学的な方法論が無効であると主張するのが正当かどうか、と言うことです。僕には、量子力学レベルでの不可知論を持ち出して自然科学/社会科学の方法論を否定する(ようにとられるようなことを言う)のは無責任極まりなく思えます。如何でしょうか。▼それと、意地悪な問いかけにとっていただきたくないんですけれども、自然科学的な方法論に疑問を投げかけている一方、量子力学に過大に論拠を置くのは如何なものかと正直思うところではあります。このあたりはどうなんでしょうか。▼ってレトリックに走りすぎましたか。すみません。お互い様と言うことで。わはは。』

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jouno
『無効であるという主張をしているわけではないんじゃないでしょうか。自然科学というものを相対化し、自然科学的問題設定というものの、哲学的、社会学的な含意を明らかにするということは、自然科学の、世界を操作可能な数量化された対象として把握する能力、有効性をうたがうものでは微塵もないでしょう。』

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kagami
『『自分の命を賭ける自由と他者との共同性の意識というものが、科学の根底にあり、それが意識化されないと、実在主義に堕するのです。え? なぜ実在主義でははいけないのか? いけないんですよ。人生には希望があるからで、実在主義とは破滅していく巨大なからくりです』…いやあ、感動致しました。アルベール・カミュがシーシュポスの神話の中で同じニュアンスのことを述べておりますが、現代の世でこういったことをきちんと述べてゆける方がいることはまさに希望を感じます…。私も同感です。』

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finalvent
『svnseedsさん、ども。うまく通じてないなという感じはあります。▼「限界があるが故に(自然/社会)科学的な方法論が無効」ということはないです。この点は、jounoさんが補足された点でもあります。これは基本的な現代国語レベルの読解の問題かなと思うので、それ以上はもういいでしょう。悪意にとらないくださいね。▼前提的な話に戻って、全体の話のフォーカスは、「我々の認知に限界があるのは明らかなわけです。そんなのは元から大前提ですよ」ということではないのです。ベル不等式が示すものはディパーニアの言葉(訳語ですが)を借りると迂遠な実在という、ある種畏怖を感じさせるなにかなのです。私の知覚には限界がある…それはあたりまえだし、つまらない話です。そうではないのです。パスカルのように私の知性はそれを越えて畏怖に出会っているのです。その畏怖と人間知性の超越性というもののがわからないと、こうした問題への情熱の根が見えないだろうと思うです。ブライアン・ジョセフソンが尊敬する人をベルとしたとき、そこに戦士の勇気のようなものを感じるのですよ。▼嫌われる言い方かもしれませんが、なぜ知を求めるのか? 私はある意味で単純なのです。そこに底知れない美があるからです。この美は悪魔的でもあるのですが…、それは深く、永続的で静かな陶酔です。そうしたものを与えてくれたものの、巨大な一つが「ベル不等式」です。また、ゲーデルの不完全制定理(自然数の超越性)です。この美がいくばくか彼らの知性を世間からみると狂わせたかとしても、しかたないでしょう。もしかすると、この美は、MDMAより強烈かもしれません。なにもこんな大きな美と畏怖に出会わなくても、カントールの対角線論法にも美はあります。美しい!』

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svnseeds
『どうもです。「自然科学理論とは基本的にこのトートロジーしか意味していない」とか「数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ」ってところを「科学的方法論は無効である」と言っているのだと理解してました。そうではないとすると、結局ここで何を主張されてるのかさっぱりわかりません。やっぱり読解力の問題なんですかね。うひ。▼それと、生とか人間の支配の意図がどうのって話もわかんないですね。そういうものをあえて外から(内から?)導入する意味がわからんのです。話を複雑にしてるだけのように思えます。認知に限界があるって単純な話と、その畏怖とやらがどう異なるのかもよくわからないですね。が、これは世界がどう在るかについての見解の相違なんでしょう。やっぱりわからんということがとりあえずわかったので僕は満足してます。▼長々とお付き合いいただきどうもでした。ではでは。』

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finalvent
『svnseedsさん、ども。雑に書いているせいもありますが、別に難しい話ではないと思うのです。というか、ちょっと嫌みに聞こえるかもしれないけど、svnseedsさんのような切り上げ方を他の人がされないためにも補足しておいたほうがいいかなと思いました。▼「数量化されたモデルはあくまでモデルしかなく、その妥当性は理論内の命題による構成との関係で常にトートロジーだ」……だから、意味・有効性は、その外部との関係になる。実験などだしかし、その外部との関係はモデルの総体の正しさを保証しない。ある現象においてあるモデルの個別の命題が妥当である、または反証されるだけ。それ(実験的な正しさなど)を、我々がどう受容するかというのは、あくまで我々の選択(価値判断)にかかっており、この営みの構造の根底に生の意志がある。ニュートン力学が間違っているのでも量子力学が合っているのでもない。我々が宇宙に対してどのような態度を取るとき、そのモデルを選択するかという問題が現れる。▼このように、自然科学は宇宙・自然への操作性・開発の意図を持つ。そもそも人間存在がそのように自然・宇宙に働きかけ、服従させようとするからだ(ピアジェ的に穏和にアコモデーションと言ってもいいが)。社会科学は自然科学に模倣することは、その数学化によって可能になり、モデルと命題の関係も同じなる。が、そのとき、社会科学とはどのように人に選択されるのか。それは、当然、人間を支配するという意図であろう。と、難しくもないでしょ?▼自然科学と社会科学の、ウェーバー的な違いは、モデルと対象の対応を機械的に、つまり因果的に捕らえるか(自然科学)、あるいはモデルによって主観・了解を働かせるようするか、にある。なぜなら、人には自由意思があり、主観がある。そのなかでどう了解を研究者の主観から遠隔させるかということが、モデル=理念型という装置の意味であり、その理念型を駆使できるという根拠性がヴェルト・フライハイト(価値自由性)である。▼「認知に限界があるって単純な話と、その畏怖とやらがどう異なるのか」…についてだが、後者も単純な話だ。人間はは自己を越える未知なるものに畏怖を持つ。それはそーゆーものでしょと以上に言う必要はなかろう。また、認知に限界があるという問題ではない。ここはsvnseedsさんの現代国語的な読解ミスというと失礼かもしれないが…私はこう書いていた、つまり「私の知覚には限界がある…それはあたりまえだし、つまらない話です。そうではないのです。パスカルのように私の知性はそれを越えて畏怖に出会っているのです」、それは、知覚の限界を知性は越えるということだ。その問題だ。▼svnseedsさんは、知覚の限界を超えるという人間の知性の本性の意味の考察を、おそらく宗教的(反宗教的に)に断念し、それがおそらくある種のイデオロギーになっていると思われる。いわく、人間を越えた存在、畏怖すべき存在、そんなものを知りたくもない、と、そんなものは主観だ、と、信仰だと。しかし、それは違うのですよ。▼人間を越えた存在は、正当に考えて、信仰を排除して、ありえます。そして、存在とは、人間の知性・認識にとって、畏怖すべきものとして現れているのです。このことは、信仰ではなく、きちんと知を伸ばすことで理解でき、その美を味わうことができる、という意味でピアノの練習と同じなのです。』

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kagami
『finalventさんはスピノザですね…。唯物論ではなくオントロギーをきちんと考えるということを、社会の大勢の人々が考えていってくれればよいのですが、資本主義と唯物主義の融合したものが世界の多数を制しているのが現代な訳でして…。(宗教もすでに融合体に一体化している)そういった世の中で発言してゆくのはとても大切で大きな意味あることだと思います。頑張って下さい。』

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finalvent
『kagamiさん、ども。このあたりの考えというのは、たぶん、とても凡庸なんだろうと思うのですよ。自分の西洋文明に対する凡庸なありかたというか。スピノザはちょっと変わった哲学者でもあるけど、凡庸は凡庸というかオーソドックスなのでは(余談ですが、松岡がライプニッツ著作集を書いていましたが、ライプニッツもその意味で凡庸でしょう)。むしろ、日本近代はそうした西洋のアンチの部分だけ上澄みをすくってしまったのかな、と。余談ですが、西洋近代のもう一つのアンチは狂気というかセクトでしょうね。』

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svnseeds
『うーん、そうやって決め付けられちゃうとお話にならないんですよ。ヴェルトフライハイトはどこに行っちゃってるんですかね?▼どうやらお互いの信念に大きな違いがあるようなので、僕はその違いがどこから来ているかを知りたくて議論しているつもりなんですが、finalventさんはどちらが正しいかを議論しようとしているように見える。僕は自分が何も知らないことを自覚しているので、より正しいと思われる認識があることが納得出来れば宗旨替えすることにやぶさかではないのですが、あれを知らない、これをわかってない、だから違う、と繰り返されるばかりでは議論を続けることの意義を見出せません。というか僕の定義ではこれは既に議論じゃありませんね。これ以上知識自慢ごっこにはお付き合いできません。▼といっておいて続けるのもアレなんですが、知覚と認知を厳密に使い分ける必要はないものと了解してましたがどこで間違っちゃったんでしょう。「私の思索では、実在を基本的に排除し、それをセンスデータ(簡単に知覚・認知と言ってもとりあえずいいです)としているわけです」とのことだったので。こういう場ですから厳密に定義してくれとは言いませんが、用語の使い分けが重要な意味を持つのであれば予め断っていただきたいものです。▼とレベルの低い揚げ足取りはおいといて、認知でも知覚でもいいんですが、僕が、それらに限界がある、ということで意味していたのは、「自己を越える未知なるもの」の存在を了解している、ということです。限界があるのだからそれを超えるなにものかが存在するのは当然だという理解です。それを「知覚の限界を知性は越えるということ」と表現することになんかしらの意味があるとは思えませんね。▼そしてその限界の先にあるものを認めたときに畏怖するかどうかは人によるでしょう。畏怖を感じていないのでそれを認めていない、という判断はnaiveに過ぎます。僕は畏怖ではなくある種の諦めを感じているわけですが、そこに優劣は存在しますか?▼また、言ってみれば、例のベルの不等式は、そのような理解を厳密な形式で述べただけです。決定的になったという点ではepochでしょうが、その点を除けば、一部の人間の昔からの認識/世界観の追認に過ぎない。彼らの内ではベルを待たずその認識は既に決定的だったわけですから。そうでなければ、つまりベルの不等式を知っているかどうかが真に重要なのだとすれば、彼の論文以前のこの分野における論考はすべて意味がないことになってしまう。これは馬鹿げた主張です。パスカルがベルの不等式を知っていたとは思えませんが、それが彼の偉大さに何か影響しますか?▼前後しますが、自然科学に関する話、僕が理解できないのは生の意志だとか服従だとかという大げさな言葉を何故使うんだろう、というところですよ。そこを除けばよくある相対主義者の主張と変わりませんから。根本的なところでは、そのような相対主義的主張ってなんか意味あんの、って疑問がありますが、まあこれは趣味の問題でしょう。科学者が悩んでるんだったらわかるんですけどね。▼更に自然科学を真似た社会科学は人間を支配するという意図をもって選択される、という主張に至っては完全に理解不能です。モデルの基礎が自然でなく人間になると何故そうなるのかさっぱりわかりません。▼ということで、相対主義的な主張を一方でされていながら、他方でどちらの主張が正しいかという議論をされている矛盾(アスペの実験結果を正しいとするのがfinalventさんの「生の意志」であるならば、それに依拠して他者を間違っていると判断することの正当性を担保するものは一体何になるのでしょうね)に無自覚でいらっしゃる限り、僕はここらで切り上げさせていただきます。ではでは。』

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finalvent
『svnseedsさん、ども。論理的に理解すると(ユーモアでこう言うのですが)、svnseedsさんが「ここらで切り上げさせていただきます」が成立することは、その必要条件として、finalventが持論に「無自覚でいらっしゃる」ことになりそうですね。そうなのかもしれませんね。私としては、この件について特に付け加えることはありません。ラフに読まれているなという印象を持つのですが。でわでわ、と私も付け足して終わりにしましょう。』

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April 09, 2004

memo2

35 :32 :02/12/03 07:26
>>33
研究方法の違いは古くて新しい大きな問題だから、ここでは避けます。
研究者の交流について。
大昔は強くリンクしていたし、それなりにお互い意識していた。
それこそ、柳田の書生だった岡政雄(都立大の社会人類学の祖)が柳田から放逐されたり、石田英一郎(東大・文化人類学の祖)の民俗学批判に反応しない民俗学徒に失望して柳田が民俗学研究所を店じまいしたり、結構意識してたんだな。
お互い。喧嘩するほど仲が良かったんだ。
1980年代くらいまでは、文化人類学の方でも、結構、民俗学に関心持つ人がいた。構造論の隆盛期、山口昌男や宮田登は連んで面白いことやってたよ。
人類学者じゃないけど若き日の中沢新一なんかも民俗学の解題本の編者になっている。
現代思想なんかでも人類学と民俗学がそろって取り上げられていたね。
でも90年代に入って、両者は疎遠になった。
というか、人類学はポストモダン状況で学問の大転回を余儀なくされて、一方、民俗学はなぜかしら安穏としていたものだから、自然と乖離していったのね。
どっちが良い悪いじゃないけれど、どっちともお互いに感心を失ってきた。
悪く言えば、もう人類学はほとんど民俗学に見向きもしない。民俗学もそれを必要としない。
昔は、民俗学VS文化人類学という構図もありだったんだけど、いまでは喧嘩するほど向き合ってないのです。
いま、アクティブに両方の学界で活躍し、認知している人ってあまりいないね。
他学界で一目置かれている民俗学者は、宮田登亡き後、福田アジオくらいかな。
彼ならば、歴史学界には学問的影響力を持っているし、人類学界でもそれなりの知名度を持つ。
人類学者では伊東亜人か渡辺欣雄くらいかな。民俗学に理解を示すのは。
若手には頑張っている人もいないことはないけど、おおむね50歳以上は民俗学に内向しています。
良質な若手に期待!といったところでしょうか。

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BBSよりメモ

129 : :02/07/06 08:08 ID:fTNKlLof
フィールドワーク、今でもやってますよ。
でも、もう人類学の専売特許じゃなくなって久しいので、
その意味で人類学の側がアイデンティティ・クライシス状態。
手法(フィールドワーク)はお家芸じゃなくなって、記述
(民族誌)は迷走の果てに行き詰まって、理論は新機軸が
出てきてない。さあ、どこに活路を見出すか、ということっす。

140 : :02/07/09 09:57 ID:rDGVFS7+
というか、一部の先進国をのぞけば、社会科学全体が国策的とでも
というのか、国家に対して何らかの貢献をすることが、大学で
金出して研究やらせる前提になってると思います。人類学の場合も
具体的な数値的サーベイを出すとか、少数民族対策やジェンダー
関連の政策なんかに反映できる応用性をアピールする、といった
ことが求められていますよね。

僕も東アジア某国の人類学科の先生のお話を伺ったときには
「社会的価値を指向しない研究は、先進国の有閑階級のお遊び」
みたいにとらえている印象を受けました。

141 :名無しさん@お腹いっぱい。 :02/07/11 18:36 ID:pcu9IVe5
>>138
というか、日本の人類学者でそもそもきちんと論理操作ができる人が少ない。
「A を B と言い換えることが説明だ」と思ってる馬鹿が多すぎ。

観察された現象を構成要素に分解して、キチっと要素を定義して、
そこから問題点を組み立てて分析するという、学問の基本的な作法が分かっていない。

多くは欺瞞的な題目を振りかざしてふんぞり返るポモ・カルスタ・ポスコロ馬鹿か、
日本人が行かなそうな地域をフィールドにして、それを隠れ蓑にしてるフィールドヲタ、
この2タイプのニセ学者が跋扈しているのが現状でしょう。

どっちも言葉の雰囲気に酔った「言葉遊び」でオナニーしてるという点では同じ。

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April 02, 2004

CD Revieew1-Jazz-

 Genxx.blog*トップページのCDのレヴューコーナーからの移植。

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Posted by gen at 04:16 AM | Comments (0) | TrackBack (0)
March 28, 2004

つらつらとpickup、吟味対象

★岩壁の断崖が、私の足元で、深淵の上でどっしりと休んでいる。
千の小川が輝きながら流れ、恐るべき滝となり、飛沫をあげる。
己の力強い衝動に従い、樹の幹が空へすくすくと伸びる。
この様に全てを造り、育むは全能なる愛のわざである
(ゲーテ)

★読書は充実した人間を作り、書くことは正確な人間を作る。
(フランシス・ベーコン)

★大いなる思考は会議で生まれた事はなかったが、馬鹿な多くの考え方もそこで死滅した。
(フィッツジェラルド)

★人生は前進するしかない。
だが、それを理解できるのは振り返った時のみである。
(ゼーレン・キルケゴール)

★人の生活は常にこの二つで成り立っている。
したいのに、できないことと、
できるけど、したくないこと。
(ゲーテ)

★人間が想像できる全ての出来事は、起こりうる現実である。
(ウイリー=ガロン)

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感覚的にはうまいたとえ

 518 名前:考える名無しさん[] 投稿日:04/03/19 21:53
 子供たちがみんなで空き地に野球をしに行くことになった。
 行く途中、ある一人の子が道端にアリたちがぞろぞろと巣穴にものを運んでいくところを見つけた。
 その子はそのアリたちの生態に心を掴まれて、
 他の子たちをほっぽらかしてずーっと見守ってその場から動こうとしない。
 「そんなのどうでもいいから、早く空き地に行こうぜ」と他の子は言うが、
 その子はそんな声も耳に入らず、アリたちに見とれてその場から動こうとしない。
 結局他の子はその子をその場に置いて、空き地に野球をしに向かう。

 その子がアリたちがすっかり巣に入るのを見届け、
 「見て見て!このアリたちすっごく面白いんだよ!」と
 他の子たちにその面白さを教えようと声を上げるも、
 その時にはすっかり日は暮れ、当然のことながら周りにはもう誰もいなかった。


 哲学にとり憑かれた人って、このアリを見守ってた子供のようなもんだと思うんだな。

Posted by gen at 06:03 PM | Comments (0) | TrackBack (0)

大森荘蔵『言語・知覚・世界』序

ヴィトゲンシュタインは哲学をハエ取器にかかったハエにたとえたが、
もしそうだとすれば哲学の行路の軌跡はそのようである以外にはあるまい。
さらに、ハエが脱出し哲学が完結するといった事態を想像できる哲学者は
いるのだろうか。完結し終了した哲学史なるものを考えることはできるのだろうか。

哲学の作業を音楽になぞらえるならば、それは作曲というよりは演奏に近い
ように、私には思える。それは変わることのない主題を人それぞれが演奏する。
人間の生き方がさまざまでありながらも、それは同一の主題、利欲や野心や
愛憎の、情熱や心苦や倦怠の、弾奏であり歌であるのと同様に、哲学もまた
いくつかの変わらぬ主題の演奏であると思える。そしてこのことには理由がある。

哲学が常に面するのはこの世界と人間である。それは科学と異らない。
だが哲学は望遠鏡や電子顕微鏡で世界と人間を探索するのではなく、
世界と人間のあるがままのあり方を「みてとる」ことを求める。遠い星や
地球の内部、また細胞の極微の代謝機構が科学者にかくされている、
という意味ではこの世界と人間は哲学にとって何らかくされていない。
世界と人間はあからさまに、そのすべてをさらけだしてそこに在るのである。
科学者にその細部や遠方がかくされているというその在り方で、あからさまに
在るのである。だが、そのあからさまにそこに投げ出されてあるものを
どう眺めるか、どうみてとるか、そしてそれをどう言葉に定着するか、
それが哲学の作業である。

哲学は科学のように新事実を発見したり新理論を発想しはしない。
哲学に新事実というものがあるとすれば、それはかくし絵の中のかくされた
姿をみてとること以外ではない。
そのかくされた姿とはすでにそこにあからさまに在り、すでに見られていたものを
「みてとる」こと、それが哲学なのである。科学が news に向うとすれば、哲学は
new look に向うのである。

だからこそ、哲学は専門ではありえない。
物理学や経済学が専門であるようには哲学は専門ではなく、哲学に素人と
専門家との区別はない。誰であろうと生きているかぎり、世界と人間をある見方で
「みてとって」いるからである。ただ普通以上にその「みてとる」ことにかまけ、
「みてとる」ことを明確に意識的に遂行しようとするとき、それが哲学専攻と
言われているにすぎない。

哲学は古来変わらぬ主題群の果てることのない演奏だと私には思えるのである。
そこでは一人の演奏の終わったところから次の人が引き継いで演奏を続けると
言うことはできない。誰でもみずから始めから演奏を始めなければならない。
それがいかに拙いものであるとしてもである。
そしてまた、音楽の演奏がそうであるように、繰り返し巻き返し演奏をやり直さねば
ならないのである。そこには終了といったものもなく完結というものもない。
つねに未完であり、絶えざるやり直しがあるだけである。

哲学とは本来、途上のものであり、終わりのない過程なのである。

                    (大森荘蔵『言語・知覚・世界』序)

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March 27, 2004

戻ってくる語り

★何かを思い、何かを語る。それはあくまで自分の意見である。他者に強制はできない。でも自分の信念に基づいて「それは違う」と思った場合、どうすればいいのか。どうしようもないこの感情、正当性。とりあえず自分が存在を賭けるならば行動に移すべき。でもその行動とは何か?書くこと?語ること?説得すること?社会運動を行うこと?あらゆる情報は所詮他者から伝え聞いたものであり、本当のところはわからない。その上でなにを語りうるのか?どう行動しうるのか?

自分に直接かかわらない問題にまったく無関心を装うのは何か違う。でも、そもそもこれほど難しいのに、いったいどうしうるのだろう?とりあえずは広く関心を持っておくしかないのだろうか。

★最終的には「私は‥」という形でしか語りえない。でもただ単に自分が思うということではなく、もっと普遍性を含んだところの「私は‥」に最終的には回帰してくる。それはただ単に「結局は自分のことしか語り得ないから自分のことだけ語ればよい」という態度とは異なり、質の異なった「私は‥」の語りだ。とりあえずはこの方向性を目指すしかない。

★とにかく言葉の背後に存在するものの重みが感じられるかどうか。これに話し手が放つ言葉の「強度」が大きくかかわってくる。たとえ学者を目指すとしても、絶対にこれを忘れないこと。この「強度」を意識し生きてゆき、その地平に立っていること。

★文章のおいしいところだけの抜粋をもとに語るのではなく、比喩的にいえば、一冊の「ボリュームとして」語ること。これが欠けている。

Posted by gen at 06:21 AM | Comments (0) | TrackBack (0)

朝生を観てその他

★語りそのものの内容ではなく、語り手がいかに語るかというその人間そのものを観察し参考にする場としての「朝まで生テレビ」とかシンポジウムの有効性。「強度」への視点からの観察。

★右翼にしろ左翼にしろ、ひとたび集団がある方向に動き出すと、その集団の方向性はかならず先鋭化する。逆方向へ戻すような意見は、日和見主義として軽んじられ、過激な意見が通りやすい集団力学が働く。この際集団を構成する者の頭がいいとか悪いとかは関係ない。戦時中の軍部の暴走も同様のロジックによって語りうる。何事かをはじめるのは簡単だ。しかし止めるのは、困難を極める。

★資本主義=利益主導。全共闘=利益(自民党政治)<理念主導。全共闘の崩壊→ふたたび利益主導型へ。個人としては理念を持って生きていても、ひとたび政治のことになると無関心・なーなーになるメカニズムはなにか。

★全共闘は本来抵抗運動から始まった。武力を得たりしていつのまにか権力奪取までを目指す運動へと進んでいったが、権力奪取後にどういう社会を実現すべきかのビジョンがなかった。もとは抵抗運動として始まったのだから。だからこそ、全共闘指導部の正当性を担保するものは「党」であったりし、結局は自らがスターリン主義を再演することにもなってしまった。

★革命戦士ははじめから存在するものではない。個人内の革命をまず行うことが重要。だからこそ自己批判・他者批判を徹底。集団メカニズムにより殺人にいたる。でもそこから逃げ出すことは、すなわち自分の正義からの逃走でもあった。だから逃げ出「さ」ない。リンチ殺人。

★自衛隊イラク派遣。国益主導の派遣。じゃあ兵士がイラクで死んだ場合、「国の利益のため」に死んだということだけで納得がいくか?やはりなにか大義が必要ではないか?明確な大義を考え付かない現状としては、イラクにまだ派遣すべきではなかった。(宮崎哲弥)

★オウムの問題は「だらしなさ」にある。麻原が何も語らないことが、オウム信者にとって、まだ凄みを効かしているのかもしれない。おそらく教祖化するのは間違いないだろう。

★民衆のため。人民のため。なにかを「代理して」行動を起こすことの危険性。歴史が証明する数々の出来事。よって、自分と他者のうさんくささのない付き合いのレベルに即して、社会を考える必要があるのではないか(小阪修平)。←でも政治の本質からいって代理性は不可分なのではないか(宮崎哲弥)

★存在を賭けて語る言葉の「説得力」。この意味で遥洋子>香山リカ。知識レベル云々以外の姿勢の問題で。

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February 22, 2004

亀井勝一郎 『愛の無常について』(講談社文庫、1971)

 楽しく苦しかったー。久々の人生本のスマッシュヒット。考えに考え抜き、生き様でそのまま著者が体現した地平から言葉が発せられているため、どの言葉も重くこころを震わす。そう、これは今は亡き読書家の祖父が、唯一自分に「読め」と託した本だった。以下、印象的部分の保存メモ。

★精神について

 「与えられた政治、その時々の風潮、それに盲目的に従っていくだけの人、党派の中に在って、自己固有の判断力を失ってしまっている人、すべてこれは人形です。(中略)個々人の自由意志に立つことを原則とする文化すら、ジャーナリズムの膨大な機構によって、己の意思に反して人間をこの状態に強制している。(中略)自分は果たして一個の人間であるか。――この問いを、さまざまな角度から発してごらんなさい。」(pp13-14.).

 「『生まれ変わる』ということを、私は人間の根本条件としております。(中略)この世に順応していくかぎり、誰しも体験は持つが、それはきわめて狭い範囲の、受動的な蓄積物にすぎず、そのかぎりでは動物的なものにすぎませぬ。この体験に思索を加え、その意味をさぐり、形成し、変様することによって、はじめて人間的体験というものが成立するのです。この力がなければ、大人とは単に傲慢な子供にすぎますまい。(p.15)

 いかにして生まれ変わるか。「考える」=「愛する」=「疑問によって自己を妊娠せしめられ、かくて自己を生む」=「生まれるためには破壊しなければ」=「懐疑」=「疑問の永遠性、永続性に耐えること」(16p)

 「人間という、あわれにも短い生命が、永遠という無限時間に突き当たるのは、たしかに『考えること』においてです。(中略)そしてこの限界超克の姿が、実は人間であることの最大特徴だとも言えますまいか。動物は、決して己を超えようとはしませぬ。」(17p)

 「動物は決して絶望しませぬ。人間に成りかかっている人間だけが絶望するわけです。つまり、自己に絶望し、自己を否定しながら、第二の自己を形成していく。絶望とは、「生まれ変わる」ための陣痛に他なりません。」(18p)=絶望したことのない人間は落第

 「悪徳」=「早く解決を得たと思い込んで、そこに安心し、自己を限定するか、或いは限定してもらう態度」=(そのとき)「人は独善におちいる」=「ある種の宗派性、党派根性、官僚制、公式主義といったものは、すべて人間のこの弱さに結びついているもので、弱い精神、考えることの中絶、その空白に向かって他者からの限定が到来しやすい。そして人間は、この限定において一種の強さを示すものなのです。」(19p)←全体主義は青春の性急さに訴えかける、必ずスポーツを奨励

 「人間は努めているかぎり迷うに決まったものだ(ゲーテ、ファウスト)」=最高の師、最良の書とは、迷いを解いてくれるものではなく、一層深い迷いの中に追放するような性質のもの=「私の身に即して、彼らもまた迷い込む」(21p)

 人間の生命とは「一念」=「自己自身への祈り」=「そして自己への祈りが、自己によって裏切られるという事実も付け加えておきたく、その次に来る祈りもあるということを」

 邂逅について。わが身に触れてくる小さい狭い範囲の社会を直視せよ=読書も邂逅=一生の中で体験する社会は全体のわずか=まずはこの中で最上の結合を求めよ=これが社会性の基礎

 「故人の跡を求めず、故人の求めたるところを求めよ」

 「沈黙とは、正確さへの意思」=「意志の強さの尺度」=「多くの沈黙に耐えた人の言葉ほど美しい」=沈黙を重視し、それに耐えよ=言葉が生まれる=自分が生まれる

 「明日とは、今日の空無の上に立った一片の空想である」「死の自覚が、人間の本音を、まず自己に明白ならしむる」「生とは、死との妥協」(33p)

 「歴史とは、人生の膨大な量」「過去とは別離であり、愛情の消滅のことであります。どんなに歴史上の知識を持っていても、私の謂う邂逅なく、生命のふれあいがなかったならば、それは『過去』なのです。反対に生身の師のごとく、友のごとく、史上の人物に付き合うならば、それはつねに『現存』なのです。」ex.キリスト(36)

 「我に我あるなし。我が信ずる者、我が生命となりて、我を生かしむ。」「邂逅はあくまで一対一でなければならぬ。そしてたった今生まれたという始原の思いがそこになければなりませぬ」(38)

 「有名になることは、単純化されて濫用されるということです」「人間は自己自身に対しても十分に俳優的存在であります。」(59)

 孤独とは、「危機と不安を原動力として、抵抗しつつ凝固する自己結晶の作用なのです。」「神が人間を創り給うた。さて、まだこれでは孤独さが足りないと思し召して、もっと孤独を感じさせるために妻を与え給うた。(ヴァレリイ)」「家族は矛盾をはらんだ生命体であり、いつかは分裂しなければならぬ運命を耐えているもの」「自己を持つことは、『心の出家』をはじめること」(63)

 「党派は、或る個人の固有のテーマを追求するものではなく、様々な個人の平均化された願望を平均的に追及するものであります。政治は常にこの平均性の上に立脚し、平均しつつ高めることをその理想とするもので、この意味で複数的なのですが、自発的に自己固有のテーマを考えるという精神の単一性からいうと、あきらかに苦痛に違いありませぬ。」「故に党派の最も恐れているものは、必ずしも外部の政敵ではなく、(中略)自己内部の孤独」であって、「最大の裏切り者は、常に内部から出るのです」(66)

 「断言によって、人間は強烈な孤独を自覚するのではないでしょうか。(中略)断言とは、一の自己犠牲であります。(中略)孤独を恐れる者は、いつも弁解の言葉を用意していなければならない」「精神とは地に堕ちて死ぬ一粒の麦なのです。それはつねに一粒であらねばならぬ。(中略)それはあくまで現実社会の中でのみ、発芽を促されなければなりませぬ」それが時に爆発的革命をもたらす(ex.キリスト)「精神をもつことにおいて、人間はみな何らかの意味で受難者なのです。」「(臨終において人間は)自己の全生涯に対して孤独となる(中略)故に、生そのものをこれらに慣らすように仕向け、死に向かって成熟して行くべき」(72)

★愛の無常について

 「人間であるかぎり愛とは巨大な矛盾であります。それなくては生きられず、しかもそれによって傷つく。」「人間的愛にとって、最大の敵とは、時間そのものかもしれませぬ。」「愛するということは、全自己をあげて永遠に愛しようとすることでなけばならぬ。愛の可能性とは、愛の永遠性の可能性のことです。永遠に愛することを欲しない愛、いわば時間的に限定を設けた愛など存在するでしょうか。(中略)みな永遠です。愛とはその誓いなのですから。」「その永遠性を、今に完成したいという欲求」「永遠性を今に完成させるためには、死を選ぶ以外にない。死は人間的時間の終焉です。死が愛の完成の証明となるのであります。(中略)失恋者の自殺は、恋を失った絶望によって、自己の恋の絶対性を確信したものの自己証明です。」
 
 「愛の永遠性を断言した美しき瞬間、これが愛の実際的な定義のように思われます。愛の可能性=永遠性の今(中略)「したがって、すべて愛するものは、その心中のどこかに、幾分かずつは、死の誘惑を持っているはずだと思います。いや、愛とは美しき瞬間における死であるといってよい。芸術は、この瞬間を永遠化しようとする、人間であることの悲しき願いに発したもの」(78)

 「汝隣人を愛せよ、と聖書は教えています。自己に最も近い隣人とは、家族であり親族ですが、我々は、自己の身に近いものほど愛し得ないという事実に直面します。(中略)つまり自分の身に触れてこない対象、ないしは時々しか会わない対象、その意味で抽象的なものほど愛しやすいわけで、換言すれば、自己の観念を愛しているということになる。人類愛の名において、自己を愛しているのであります。」(82)

 「純粋な敵とは個人的存在なのです。愛の関係が一対一であるように、憎悪の関係も一対一で、集団化するにつれて敵対意識は希薄になるでありましょう。戦争における外的とは架空の存在に過ぎませぬ。」近代の戦争の場合、「敵愾心とはイデオロギーであり、宣伝によって人工された情熱であり、(中略)いや、敵とは(飛んでくるミサイルなど)機械そのものかもしれないのです。」こうして「一片の憎悪、一片の敵対意識なくして、無数の人間を殺すことができるわけです。」そして直接的な敵意の対象となるため、「政治家がもっとも恐れているのは内敵なのです。」(87)

 「独自性のないところに、敵は存在しませぬ。」

 「恋愛とは美しき誤解であり、誤解であって差支へありませぬ。そして結婚生活とは恋愛が美しき誤解であったことへの惨憺たる理解であります。」「理解は犠牲を要求します。」「絶えず理解を疑うことが、理解に近似する唯一の道です。人間はいったい、何を知りうるのでしょうか。」(97)

 「人間の空虚なことを充分に知ろうとするには、恋愛の原因と結果とを考察すれば足りる。その原因は、『何ともいえない」ことである。が、その結果は恐るべきものである。この『何ともいえないこと』、人の知ることもできないような些々たることが、全地、王公、軍隊、全世界を動かすのである。クレオパトラの鼻、それがもし少し低かったら、地の全面は変わっていただろう」(パスカル、瞑想録162)

 「恋する人間をごらんなさい。彼らはみな天才的に振舞っているではないか」(トルストイ)恋愛は「芸術と同じように、破滅と復讐の上に成立する快楽なのです。だから美しい。」「愛し合う二人の恋は、ほとんど決して同じではない」(スタンダール)「恋愛とは、本質的には片思いなのです。」「『想像されたものはすべて実在する』という恋の狂気(錯覚)」(107p) 

 「おそらく一番賢明なのは、自分を打ち明け相手とすることである。恋人と交わした会話、諸君を悩ます困難等の特徴ある詳細を、名前を変えて今夜すぐ書いておき給え。もし諸君が情熱恋愛を抱いていれば、一週間経てば諸君は既に別の人間になっているはずだから。その時この診断書をよめば、諸君はいい忠告を聞けるだろう」(スタンダール恋愛論第34章) 「自己の感情の『何故』を知ることができないものは、音楽の狂信者となるのです。(中略)外部の音楽が彼の運命を扇動し、恋愛におけるごとく結晶作用が起こる。しかし絶対の孤独においてです。」(116p)

 「快楽と幸福の追求に際して、我々はひどく大胆に空想的になるか、反対に小さく臆病になるか、どちらかの場合が多い」「どのような快楽、いかなる種類の幸福であっても、もしそれがその名に値するものならば、必ず努力と苦痛は避けられぬ、気晴らしといえども例外ではない。これが鉄則です。(これを端的に示すのが恋愛)」(118p) (Gen注)それゆえに、老後の楽しみとか生きがいを作っとくには、<努力を重ねた快楽を追求する>ってことが大事なのだろう。それは真に生きがいとなるから。そしてそれが「趣味」と呼ばれるものなんだろう。仕事以外にも引き出し作っとかなきゃな。

 「快楽と無常は双生児なのです。」「もし死を忘れ、人間であることを忘れさせるほどの幸福と快楽があったならば――。(中略)神をも求むる心もそこから起こりました。しかし、死を忘れ、人間であることを忘れる方法とは、死の忘却でも人間無視でもなく、逆に死の凝視であり、人間を研究することで、あげくの果てはいよいよ明晰に死を、人間を考えさせる結果となった。」「死が、快楽にとって無上の薬味であるならば、快楽は、死にとって死に慣れさせる適切な練習とはいえますまいか。(中略)死は快楽への執着を倍加させ、同時に快楽はその復讐をも倍加させるという風で、まことに困ったことに、この二つは永久に仲良く収まることができませぬ。快楽を歌った詩人も、死を歌った詩人も、換言すれば同じように復讐を歌っているのかもしれませぬ。」(121p)

 「人間はつねに、恐怖の深淵に挑んで生きているものなのです。快楽派(エピキュリアン)とは、この自覚に生きるが故にこそ快楽派であり、宗教家もまたこの点では同一ですが、前者は深淵のほとりに饗宴を開き、後者はそのほとりに祈祷を捧ぐるものであります。」(122p)

★罪の意識について

 「人類史とは、女を裸にしたり、着物をきせたり、いわば快楽と厳粛の二重奏をくりかえしてきたようにも思われるのです。」「すべての恋人のなかには、多少なりとも、マリアとヴィーナスが共存していて、愛のうちにそれぞれのすがたを呈するのでありますまいか。」「ルネッサンスの画家たちが、裸体を描いて、決して卑猥にならず、無上の美を現出した根本には、ヴィーナスに捧げられたひそかなマリア的祈祷があったのではないでしょうか。つまり裸体は大胆であるだけ羞恥を知り、節度を知っていた。裸体はその祈りを持っていたといってもいいでしょう。」「情欲の奔放さ、その罪悪性の確認、これを自覚し、しかもつねにその復讐に遭い、更にまたこれを克服しようとする、こうした激烈な対立闘争の連続のうちに、真の裸体美は生まれるものなのであります。」(162p)

 「芸術とは偉大な誘惑術のことであります。それは政治目的にも、宗教道徳的目的にも仕えるものではありませぬ。無条件に美しいということが一切なのです。(中略)美の創造者とは、かかる沈黙の誘惑者と言ってもよい。(中略)一の盲目を創造するものなのであります。」「欲情をそそることはむろんですが、それは創造された美であるが故に永続的であり、人間を悩殺せずにはおきませぬ。誘惑の極地とは悩殺のことです。文学でも美術でも舞踊でも、最後はここに達するべきはずのもの」「ギリシャ神話によると、ヴィーナスは海水の泡から生まれたということになっていますが、美とは海水の泡のごときものかもしれませぬ。大生命につながる戦慄と恍惚の所産なのです。快楽というなら、これほど快楽的なものはなく、無常というなら、これほど無常なものもありますまい。そして大海の深淵へ我々を誘惑し、沈めます。」(166p)

 「美を創造するものは、本質的に言って反宗教的な神であります。」「キリスト教的に考察すれば、(美学ではどう言おうと)詩人的実存はいずれも罪である。罪とは、存在する代わりに創作し、ただ空想のなかでのみ善と信とを問題にし、実存的にそれであろうと努力しないことである。」(キルケゴール、死に至る病)170p

★永遠の凝視

 「大慈大悲とは何か。それは世の所謂あわれみでもない、同情でもなく、赦す赦さぬの問題でもない。人間的愛の不連続性に対する、それは仏性の連続性であり、一人間を永遠に凝視していてくれる明晰の眼なのである。人間社会に在って、誰が永続的に瞬時も休まず自己を見つめていてくれるか。(中略)愛とは永遠凝視力なのです。しかし人間にあっては、親子恋人ですら、やがては途切れる。私はこの寂寥のうちに仏性の凝視力を仰ぐのです。」

 「何を凝視するか。言うまでもなく人間の状態を、その矛盾を、その懐疑を、その抵抗を。(中略)どう弁明し、どうもがいても、人間である限り、永遠の凝視の前には『無』です。仏教にはキリスト教のごとき『怒り』がないと言われますが、私にはこの凝視のほうがより恐ろしいのです。」「自己計量による救いの有無ではなく、赦しの有無でもない、何処から来て何処へ行くかを知らぬ人間に対する無条件の無限凝視、言うならば、生の大肯定がここにこそ成立することを私は念ずるのであります。」

Posted by gen at 04:05 AM | Comments (0) | TrackBack (0)
February 19, 2004

但し書き

 著作権的に、これは個人的メモです。今日から3月末まで二日に一冊読んでやろうじゃないか。

Posted by gen at 05:05 AM | Comments (0) | TrackBack (0)
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