昨日はうちの心理学科全体のコンパを仕切ってきた。教授と院生に適度に気を配りながら、それでいてもガンガン飲み弾けて自分が一番楽しむのが、名幹事たるための条件かな。幹事のオーラは飲み全体の雰囲気に伝播してしまうから。幹事をやると、しんどいと同時に、どこか救われる。それにはおそらく、「状況が人を作る」ということが関係している。
一般に思われているよりも、どうやら人間は個人の性格を過大評価してしまい、状況の力の影響は過小評価してしまう、ということが心理学ではいわれています。たとえば、ネクラだと思われていた人がいざリーダーシップを発揮せねばならないポストにつくと、それなりにリーダーシップを発揮したりするということ。あるいは、しばしば、第二次世界大戦中の日本の軍国主義(全体主義)は日本人が持つ集団主義的傾向が原因だなどといわれたりするけれども、それよりも「経済的・軍事的に追い詰められた国家は全体主義的傾向に向かう」という状況的な力の方が大きかったのではないか、ということ。
第一次世界大戦の敗戦で貧困に追いやられたドイツはナチスという全体主義に走った。世界恐慌を経験したアメリカは、移民排斥という全体主義的傾向に向かった。冷戦時は、「赤狩り」なんていうとてつもない弾圧を行った。9.11以後のアメリカの言論統制の現状。どれをみても、「欧米人は自我が確立していて個人主義的だ。それに対して日本人は、他人に依存する集団主義的な性格を持つ。だから、第二次世界大戦時にあれだけの軍国主義に走ったのだ」なんてことは言えないわけです。
「対応性バイアス」というのがあります。これは、たとえ状況要因が明確であっても、人間は個人の内的要因(性格)にその原因を求めてしまう、というバイアスのことです。だから、コンパの幹事は「俺だからつとまった」という面より、もしかしたら「幹事やらなきゃいけない状況に俺がいるから、俺は自然と幹事キャラになっているんだ」という面のほうが強いのかもしれない。気分的にあまり明るくない状況にいるときに幹事をやると、「状況が自分を作ってくれる」ため、どこか救われる。他人の行動を考えてみるとき、その他人の性格ばっか考えるんじゃなく、少しは状況要因も見てやると、視野が広がるのかもしれない。あるいは、精神的に落ちてるときは、明るく振舞わなきゃいけない場所に身を置くと、それなりに自分が明るくなってゆくのかもしれない。次は、第一印象について心理学的に軽く書いてみよう。
日本人論について。Genさんが述べるように、WW�兇砲�ける日本の軍国主義が日本人の「集団主義」に起因すると考えるのは浅はかだと私も思う。
戦争等の危機的状況において国を問わず人は集団主義なりやすい、あるいはそうなるよう仕向けられていると思うからである。
しかしながら、「日本人」と他の国が違うこともまた事実であると思う。とりわけ、西欧=個人主義、日本=集団主義 とする場合について考えてみたい。
個人的見解として、この図式が成立するのはことの判断基準を「人の流動性」においたときであると考える。様々な言葉や文化が交わる場においてはそれぞれが意見をのべる必要性が高い。そして、意見をのべるという行為が「討議」の重要性を生む。その積み重ねによって「人の流動性」が低い国にくらべて「個」という概念が重要視されたのではなかろうかと思う。
ゆえに、「人の流動性」に焦点を当てて、西欧と日本を比較した場合には、日本は「集団主義的」であるという主張はあり得ると私はおもう。
だから、危機的状況における、ややもすれば、普遍的「集団主義」と「日本人=集団主義」とひとくくりにすることは異なり、それを区別する必要があると私はおもう。
結論として、二者間以上において「集団主義」か「個人主義」であるかを考える場合(戦争時ではないときに)、何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う。故に、アジア諸国と日本の間における「日本らしさ」と西欧諸国と日本の間における「日本人らしさ」には違いが現れるのではなかろうかと推測する。
長くなりましたが、以上が現時点での私の「日本人らしさについて」の考えです。
Posted by: tomato-lover at May 16, 2004 10:27 PM新しいエントリーとしてきちっと書きながら論じてみようと思ったんですが、なかなか時間が取れないのでコメント返しします。レス遅れてしまってごめんなさい。
>個人的見解として、この図式が成立するのはことの判断基準を
>「人の流動性」においたときであると考える。
>様々な言葉や文化が交わる場においてはそれぞれが意見をのべる必要性が高い。
>そして、意見をのべるという行為が「討議」の重要性を生む。
>その積み重ねによって「人の流動性」が低い国にくらべて「個」という概念が
>重要視されたのではなかろうかと思う。
まずアメリカに限っていえば、「人の流動性」が日本と比して高いのかもしれませんね。人種のサラダボウル、理念が結びつける国家などと言われてますから。このように感覚的にはわかるのですが、根拠となるデータはありますか?また、「西欧」という概念を利用しヨーロッパ諸国も含める場合はどうでしょう。イギリスは日本と同じ島国です。ただ、イギリスにはやたらと黒人は多いですね。でも日本だって中国人/韓国・北朝鮮系の人が多い。
またtomato-loverさんの「流動性→個の確立」論に同意したとしても、それに留保をつけたいと感じます。そのような流動性から導かれるものは、「人と議論するときにとりあえず自分の立場を明確に発言する傾向」であって、決して「個人主義的な傾向」などとラベリングはできないと思うのです。それを「人に頼らず自分を押し通す傾向」という一般的な傾向に敷衍化する根拠は無いと感じます。たとえそれが平和な時であれ。
>結論として、二者間以上において「集団主義」か「個人主義」であるかを考える場合
>(戦争時ではないときに)、
>何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う。
>故に、アジア諸国と日本の間における「日本らしさ」と
>西欧諸国と日本の間における「日本人らしさ」には違いが現れるのではなかろうかと推測する。
自分なりの結論は、「集団主義的」「個人主義的」などという概念がそもそも無効なものではないかということです。ある状況においては「アメリカ人の個の強さ>日本人の個の強さ」であり、また別の状況においてはその逆だと思うのです。いわば多様な人がいて多様に振る舞う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇というか。
これはつまり「集団主義」「個人主義」をどう定義するか、という話です。その意味ではtomato-loverさんの「何を基準にするかによってその結果は大きく異なるのではなかろうかと思う」という意見を汲んでいるのですが、私は、「日本対アジア諸国」「日本対西欧諸国」という対置の図式というよりも、そもそも状況(コンテクスト)の方がより重要ではないかと考えてしまうのです。
Posted by: Gen at May 24, 2004 06:26 PM>まずアメリカに限っていえば、「人の流動性」が日本と>比して高いのかもしれませんね。人種のサラダボウル、>理念が結びつける国家などと言われてますから。このよ>うに感覚的にはわかるのですが、根拠となるデータはあ>りますか?
IMO(international migration for organization)に人口のflowがあって、それを根拠にしたつもりです。でも、もちろんそれが正確なデータかどうか、分からないです。
>また、「西欧」という概念を利用しヨーロッパ諸国も含>める場合はどうでしょう。イギリスは日本と同じ島国で>す。ただ、イギリスにはやたらと黒人は多いですね。で>も日本だって中国人/韓国・北朝鮮系の人が多い。
うーん、そういわれると日本にも多くの在日の人がいるのは事実で、流動性ということに論の根拠をもたなくなります。論の破綻です¥。
>またtomato-loverさんの「流動性→個の確立」論に同意>したとしても、それに留保をつけたいと感じます。その>ような流動性から導かれるものは、「人と議論するとき>にとりあえず自分の立場を明確に発言する傾向」であっ>て、決して「個人主義的な傾向」などとラベリングはで>きないと思うのです。それを「人に頼らず自分を押し通>す傾向」という一般的な傾向に敷衍化する根拠は無いと>感じます。たとえそれが平和な時であれ。
たしかに、Genさんの言うとうり、「自分の立場を明確にする傾向」は「個人主義的傾向」としてラベリングすべきではないと思います。Genさんの指摘ではたと気がつきました。しかし、一方で、「自分の立場を明確にする傾向」オ概念を表すにふさわしい言葉がないように思います。そこから派生して、コレは、私見ですが、日本において、多くの概念規定は、それを表すのに、ふさわしい言葉が無いがために、本来の意味とは異なる意味を敷衍し、それが社会においてマジョリティーになっていっているのではなかろうかという見解にいたりました。
>自分なりの結論は、「集団主義的」「個人主義的」など>という概念がそもそも無効なものではないかということ>です。ある状況においては「アメリカ人の個の強さ>日>本人の個の強さ」であり、また別の状況においてはその>逆だと思うのです。いわば多様な人がいて多様に振る舞>う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇と>いうか。
>これはつまり「集団主義」「個人主義」をどう定義する>か、という話です。その意味ではtomato-loverさんの >「何を基準にするかによってその結果は大きく異なるの>ではなかろうかと思う」という意見を汲んでいるのです>が、私は、「日本対アジア諸国」「日本対西欧諸国」と>いう対置の図式というよりも、そもそも状況(コンテク>スト)の方がより重要ではないかと考えてしまうので >す。
確かに、Genさんのおっしゃるように、「多様な人がいて多様に振る舞う中で、レッテルを持ち出したことがそもそもの悲劇」というのは納得です。そして、これは他の多くのことにも当てはまることだと思います。
しかし、当たり前のことなのですが、やはり、ものごとをみようとするときには、ある一定の分類のようなものがないとそれは難しいように思います。えらく抽象的なのですが、なにかその溝をうめてくれるようなものは存在するとおもいますか?
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