恋と芸術と永遠性と

 亀井勝一郎 『愛の無常について』(講談社文庫、1971)を読んではっとしたことを少々。いや、たまたま本棚で見つけたら、これがえらく魅力的な言葉の海で。

 「人間的愛にとって、最大の敵とは、時間そのものかもしれませぬ。」「愛するということは、全自己をあげて永遠に愛しようとすることでなけばならぬ。愛の可能性とは、愛の永遠性の可能性のことです。永遠に愛することを欲しない愛、いわば時間的に限定を設けた愛など存在するでしょうか。(中略)みな永遠です。愛とはその誓いなのですから。」「永遠性を今に完成させるためには、死を選ぶ以外にない。死は人間的時間の終焉です。死が愛の完成の証明となるのであります。(中略)失恋者の自殺は、恋を失った絶望によって、自己の恋の絶対性を確信したものの自己証明です。」

 自分は、つきあってても「半年持つのかこれは」とか冷静に考えてしまう種の人間なんですが、それでもやっぱ「ずっと一緒にいたい」という気持ちがなければ、その恋は嘘なんじゃないかという気もする。恋心の真相とはきっと、「この恋が永遠である」ということは信じていなくても、今、この瞬間において「永遠でありたい」と思う気持ちなのだろう。そんなことをふと考えていたら、著者の亀井さんは見事にそのことを言い当てる。

 「愛の永遠性を断言した美しき瞬間、これが愛の実際的な定義のように思われます。」「愛の可能性=永遠性の今」「したがって、すべて愛するものは、その心中のどこかに、幾分かずつは、死の誘惑を持っているはずだと思います。いや、愛とは美しき瞬間における死であるといってよい。芸術は、この瞬間を永遠化しようとする、人間であることの悲しき願いに発したものです。」(p.78)

 この永遠を志向する愛とは、おそらく肉体的快楽に対する愛でもあるし、美への愛でもあるんですよね。そしてその「決して永遠ではありえない愛」を真空パックで閉じ込めてしまおうとするのが、芸術であると。恋(愛)と芸術は、本当に似ている。

 その他面白かったのが「快楽と幸福の追求に際して、我々はひどく大胆に空想的になるか、反対に小さく臆病になるか、どちらかの場合が多い」という一節。恋とは、大胆な空想と臆病のせめぎあいのなかで、永遠を願うことである。臆病な気持ちが、空想をさらに高めてゆく。

 あと、「空想」ということに関して言えば、「『想像されたものはすべて実在する』という恋の狂気(錯覚)」というフレーズも印象的。恋の甘さとは、まさにこの「空想」があたかも実在しているかのごとく感じられるところにある。いわば、空想に形を与えるのが、恋の魔術。どんな理想もリアルなものとして思い描けるし、実際にその中で生きている感じがする。でも、それは空想である限りにおいて、たちどころに消えてしまうものでもある。空想は誘惑し、そして魅せられた者を復讐する。だから、美しい。

 また、芸術は「永遠性」を獲得したものであるがゆえに、瞬間しか触れることができない。それは一瞬の光で心を溶かすことはあっても、恋無しには満たされない自分がいることにも気づいてしまう。でも恋と芸術は双子であって、素敵な小説とか美しい芸術は、素晴らしい恋のモデルとなり得るんですよね。そこにはたくさんのものが詰まっている。

#もっともこんな文章を書いておきながら、俺が今興味あるのは、セフレというものに対する感情をなんとか言葉にするとどうなるか、ということですが。それは恋とセックスの境界線において、それぞれを照らす作業となるでしょう。困難かつ魅力的な‥


Posted by gen at February 23, 2004 06:07 AM | TrackBack(0)
Comments

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初めまして。かおりです。
その通りですねえ・・・。
う〜ん・・・
悲しいけど・・・。恋は終わるし、愛はもたない。
この本・・・いいけど、難しいかも?
上の写真は、クリムト?
私の前にも、今、クリムトのkissの絵がかかっています。

Posted by: kaori at February 26, 2004 08:31 AM

終わるからこそ、どこかで終わりを予感しているからこそ、
きっと恋愛は甘美なんでしょうね。

上の写真は映画『ナヴィの恋』のプロモーションなんで、
おそらくクリムトじゃないはず?
ちょっと小さくて判別つかないですね。
でも、クリムト、いいですよね。
目が釘付けになってしまいます。

Posted by: Gen at February 26, 2004 04:47 PM
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