イスラエルとパレスチナ1――テロリストを殺したテロリスト、その歴史的背景

ヤシン師 久々の更新です。これからはペース戻してゆきます。どれぐらいの方がこのニュースを心に留めているでしょうか。先日、パレスチナの精神的指導者、イスラム原理主義ハマスの創始者ヤシン師がイスラエル軍によって殺害されました(関連リンク)。「中東全域にくすぶる反米感情の根っこに横たわるパレスチナ問題こそ、国際情勢不安定化の最大要因(前リンク先)」です。その意味で、このニュースは9.11事件に匹敵するニュースであり、まぎれもなく歴史的事件となるでしょう。せめて自分にできることとして、情報をまとめておきます。タイトルをクリックすると読みやすくなります。

 1.歴史的背景、2.現代的背景、3.今後の展望と思うところにそって話をまとめていきます。今日は第一の歴史的背景について可能な限りまとめます。まず、イスラム教と(イスラエルの)ユダヤ教が歴史上長い間対立を繰り返してきた、という通説は大嘘です。これには注意する必要がある。

『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』/第1章

 イスラエルのテルアビブ大学付属ディアスポラ博物館は、「ユダヤ人」の苦難の歴史を伝える世界最大の展示機関ですが、そこでも「ローマ帝国やキリスト教徒に比べれば、イスラーム教徒(ムスリム)ははるかに寛容な支配者であった」旨の解説を読むことができます。「ユダヤ人」を差別・迫害してきたのは誰よりもヨーロッパのキリスト教徒だったのです。(中略)キリスト教徒にとって「ユダヤ人」はイエスを殺害した仇敵にほかならず、最も忌むべき存在だったからです。そこでは「ユダヤ人」憎悪に基づくさまざまな嘘や噂がデッチあげられ、彼らに対する差別・迫害が心理的に正当化されました。(中略)イスラームとユダヤ教はすっとそれなりの友好関係を維持してきました。ムスリムはユダヤ教徒が人頭税(ジズヤ)さえ納めれば、信仰の自由を認める政策を採ったからです。(中略)

 しかし、こうした状況は一九世紀に入ると一変してしまいます。当時、ヨーロッパにシオニズムという運動が現れました。「故郷パレスティナ」に植民地建設を夢みる「ユダヤ人」の運動です。ヨーロッパ列強はこれを後押しし、やがてイスラエルを建国させました。「ユダヤ人」の植民地さえあればヨーロッパの「ユダヤ人」を追い払うことができる。さらに中東におけるヨーロッパ支配の拠点にもなるだろう。そう考えられた結果でした。しかし「ユダヤ人」が大勢やって来れば、現地住民との間に土地や職をめぐるトラブルが起こります。(中略)「ユダヤ教とイスラーム千年の戦い」というプロパガンダは、こうしたトラブルの真相を隠し、あたかも対決が必然であるかのごとく見せかけるために考案された世紀の大嘘だったのです。そしてこの嘘はいまも、パレスティナ問題の本質を隠蔽する装置として執拗に唱えられ続けているのです。

 キリスト教的ヨーロッパ諸国に迫害されてきたユダヤ人は、自らが安住できる土地を持てず、世界各地に離散(ディアスポラ)していました。だからどうしても自らの国家が欲しい。悲願のユダヤ人国家を建設したい(シオニズム思想)。このユダヤ人の願いを先述の「ヨーロッパ列強」は巧みに用いたわけです。直接的には英国が一番関わってきます。それまで特に争いのなかったアラブとユダヤの関係に変化を引き起こしたのが、欧米列強なのです。

パレスチナ問題の発端

 イスラエル建国前は現在のイスラエルのある地域全体をパレスチナと呼び、長い間イスラム教徒によって治められていた。ユダヤ人も少数ながらキリスト教徒と共にイスラム政権下のもと共存していた。第一次世界大戦以前、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン=トルコの領土だった。当時オスマン=トルコの弱体化により、西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めていた。エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するというのは十字軍のとき以来のキリスト教徒にとっての悲願であった。第一次世界大戦中、英国は自国に有利にことが運ぶように以下のような二枚舌外交を展開した。

1.アラブ人への約束:英国のオスマン トルコとの戦いへの協力の見返りに、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束

2.ユダヤ人への約束:第一次大戦におけるイギリス内外のユダヤ人の協力を得るために「英国政府がパレスチナでのユダヤ人の民族郷土を建設を支持し、努力する」事を確約した書簡を出した。

 つまり、英国はアラブ勢力にもユダヤ勢力にも「パレスチナ」という札をちらつかせた。第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、当然それは矛盾に満ちていたから争いが生じることとなる。

パレスチナ問題

 イギリスによる矛盾する約束に、パレスチナ人は激怒する。また、戦後はナチスによるユダヤ人への迫害の影響もあり、パレスチナにおけるユダヤ人の人口が増加していく。ナチスはユダヤ人のパレスチナ移住を強く支持し、残ったユダヤ人への迫害はついには大虐殺(ホロコースト)へとエスカレートしていく。第二次世界大戦後、ナチスによる残酷な迫害の実態が明らかになるにつれ、欧米諸国のユダヤ人への同情が強くなった。こうして1947年の国連総会の決議によりシオニズムの思想が認められ、パレスチナをユダヤ人国家とアラブ人国家に分割することが決められた。

 しかし、この決議はユダヤ人の方が人口も少なかったのにも関わらず、ユダヤ人により多くの領土(パレスチナ全土の57%)を与えるものだった。これは、ホロコーストはヨーロッパで起きたものであるのに、その罪を贖うのにホロコーストとは関係のないアラブ人に犠牲をしいているととられても仕方のないことかもしれない。こうして1948年、イスラエルが国家独立宣言を行うと、それを認めないアラブ諸国とイスラエルとの間に第一次中東戦争が始まる。イスラエル優勢で休戦を迎え、結果的にはパレスチナ全土の75%をイスラエルが領土とすることになった。

 しかし、実際、中東戦争に参加したパレスチナ人はアラブ軍のほんの一部でありほとんどがイラクやシリアだった。これは、再度パレスチナを支配したいと狙うイギリスが、当時影響力を行使できたイラク、シリアをけしかけて中東を混乱させようともくろんだためと言われている。だが、現実はイギリスの政治的思惑は表面化せず、あくまで民族・宗教問題として扱われているのである(下線部、引用者)。その後、第二次・第三次中東戦争でもアラブ側は敗退し、イスラエルではパレスチナ全域をユダヤ人が支配するという「大イスラエル主義」の思想が広がった。この思想は、現在のイスラエル右派政党(リクード)のイデオロギーとなっている。

 つまり、八方美人な約束をユダヤ、アラブと結んだイギリスは、第二次世界大戦終了後、手におえなくなったパレスチナ問題の解決を国連に委ねたわけです。その後イスラエルは対アラブの戦略的重要性から、欧米、特に多数の強力なユダヤ人勢力を抱える米国の支援により、1948年5月1日独立後、次第にパレスチナ地域に不動の位置を定め、パレスチナ地域全域を手中に治めるに至りました。ポイントは、「このような国際社会の成り行きに振り回されたパレスチナ地域に元々住んでいた住民たちは悲劇にさらされたリンク元)」ということでしょう。そしてイギリスはどこまでも卑劣で横暴でした(現在のアメリカの横暴さとの相似性が連想される。もっとも最近では、イギリスは国連によるパレスチナ地域介入を唱えており、これは現時点ではまっとうな考え方なのだが、イギリスの歴史的犯罪性が色褪せることは決してないだろう)。

パレスチナ問題

 1987年、イスラエルが占領していたヨルダン川西岸やガザ地区で、イスラエルに対するインティファーダ(民衆蜂起)が起きる。イスラエル軍の銃に対し、身体をはって投石で対抗するパレスチナの青少年、母親たちの姿は国際社会の関心を集めた。このインティファーダをきっかけにエジプトで創設された「ムスリム同胞団」から「ハマス」が創設された。強大なアメリカの軍事力を背景とするイスラエルに対し、あくまで自分たちの主張を押し通すために、ハマスはテロという方法を選択している(下線部、引用者)。

 このハマスの創始者がヤシン師であり、今回イスラエルのテロによって殺害された人物であるわけです。次回は90年代のパレスチナ問題の流れと、事件前後の動きをまとめます。

参考:イギリス研究会レジュメ(非常に簡潔によくまとまっています。ぜひ一読を)


Posted by gen at March 29, 2004 04:19 AM | TrackBack(0)
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