結婚について其の2。自由vs制限?それとも‥

 
 実はskywardさんのblogで、昨日書いた結婚について其の1が取り上げられて、コメントやトラックバック含めて色々な反応がありました。いろいろと誤解された面もあったようです。そこで、それへの返答の意味も込めて、結婚について其の2を予定より早く書きます。これもあくまで一大学生の意見です。ちなみに自分は結婚したいと凄く思う人間です。ただし、35歳くらいに。

 まず3人の意見をそれぞれ要約すると、

私は結果的に結婚に結びついた相方との恋愛しか知らないから何とも言えずもどかしいのだけど、多分、高校生や大学生で恋愛をちゃんとしている子たちにとっては、恋愛はいずれ別れにつながるものというほうが身近なのかもしれない(中略)ところがだよ、別れの“わ”の字さえ1ミリも考えなかった私にしてみたら、結婚こそ自由を与えてくれる制度!と言ってのけちゃうくらいのものなのデス(skywardさん

親や親戚、社会にも認めてもらいたい相手であれば、自然と"結婚"という考えになるんじゃないかなぁ。 「自分の親と同じぐらい相手の親も大切にしたい」とか、「相手が病気のときは会社に「夫が病気なので」と堂々と言って看病したい」だとか、そういうこと思える相手となら自然と結婚したいって思うのではないでしょうか(ともさん)

そんなにみんな大変な思いをするのに何で結婚しろとか言うのは、 やはり社会的に認められた「つがい」だからでしょうか。 家やマンションを買うにしても、子供を作って育てていくにしても お墨付きを頂いて、社会では当たり前とされる形を取っていれば 「それがフツー」と見なされていろんなことがスムーズに物事が運ぶから、結婚なのですよね(annexさん

 結婚は「檻」だという表現は、たしかに挑発を狙いすぎていたかもしれません。考えると「家」という比喩が適当な気がします。結婚することは、「社会」の中に「家」を建てること。実は結婚について其の2で書くつもりだったんですが、結婚することは、純粋に不自由になることじゃない。もちろん、社会に認められて、二人がスムーズに社会の中で生きていけるという意味で、自由になることでもある。つまり、「社会」の中に、自分たちの居場所を確保する(=家を建てる)。でも、家を建てるのにはお金がいる、維持するのにかなり労力を使う、そして一度建てると簡単には抜け出せないしリスクも負う。社会に認められるという自由と引き換えに、制限を受ける(不自由になる)ことでもある。そして子供が生まれると、あとに引き返せない。
 
 ここであえて現実を離れて概念的な話をさせてください。結婚について其の1で、純粋に自由な二人の関係に徐々に社会が侵入していって、結婚はそのマックスであるということを書きました。でも実は、純粋に自由なとき、人間は不自由になる。たとえば、「死ぬまでなにもしなくていいよ」と言われれば、とても自由だけど、でも何をすべきかわからなくて困ってしまう。あれこれやるべきことがあるから、ちょっとしたことに「自由」を感じることができる。つまり、自由とは、制限されている(=不自由な)中でしか見つからないものでもあるわけです。

 とすれば、結婚して「不自由」になることは、実はそんなに不自由なことじゃないのかもしれない。二人は「不自由」だからこそ、むしろ一緒に自由を探していけるのかもしれない。子育てを離れた二人っきりの束の間の旅行が、とびきり輝くのかもしれない。

 ちなみに自分はまだ結婚したくないです。現実的に、家族を養わなきゃ、という責任はめっちゃ重い。自分の夢(やりたいこと)があるけれど、もし養うべき家族がいたら、間違いなく家族のことも考えながら、自分の行く末を決めなきゃならない。何かに挑戦するとき、賭けに出るってか、ある種「どうせなるようにしかならない。そして出た結果に対して、その責任を自分で引き受ければいいんだ!」という自信と勇気みたいなものが、無くなってしまう。結婚するには、自分をひとつの型にはめるという、ある種の覚悟がいる。よし、それを引き受けた上で、俺は生きていくぞ、という。

 「私は結果的に結婚に結びついた相方との恋愛しか知らないから何とも言えずもどかしいのだけど、多分、高校生や大学生で恋愛をちゃんとしている子たちにとっては、恋愛はいずれ別れにつながるものというほうが身近なのかもしれない」(skywardさん)という指摘はけっこう鋭いと思います。実際に、別れない・飽きない・飽きられないという自信があれば、結婚はもっと身近なものになるのかもしれない。でも、多くの恋愛がそれを物語っているように、恋は悲しいくらいに移ろいやすいものでもあるわけです。むしろ、結婚とは、移ろいやすい心をがっしりブロックするためのシステムであるとも思う(比喩としての「家」)。さきほど書いた、「ある種の覚悟」みたいなものを、形にあらわして、その形のなかで二人が暮らすというか。

 結婚はふいに訪れる、とかよく聞くけれど、それはその「ある種の覚悟」がふと生まれることなんだと思う。ただ単に相手のことを好きだから、だけじゃなくて、「ああこの人ならいけるな」とかそんな感じで。

 「"とりあえず"で付き合った人と結婚を考えると[檻]とか[墓場]っていう言葉が出てきて当然なんでしょうね」というともさんのコメントは100%否定します。それは違う。いろいろ付き合ってきて、死ぬまで一緒にいたいと思えるような人もいた。でも、だからといって、本気で好きという気持ちが、結婚したいという気持ちに直結するわけじゃない。ずっと一緒に死ぬまで寄り添いたいという気持ちと、夫婦になりたいという気持ちは、ほんとにイコール?社会に二人が認められるということが、それほど大事なことなんですか?むしろ、そういう価値観を崩したようなスタイルの年配の方も、結構知ってます。

 個人的には、annexさんの「私自身はそういう形を取る勇気がどうしても出ないです。怖がってちゃいけないんだろうけど、今の自分には結婚がどうしても幸せなものとは思えないんです」という心情にとても近い気がします。

 まとめ。結婚すると、社会に二人が認められる。いろんなことがスムーズにいくようになる。自由になる。でも社会に縛られるという意味では、不自由になる。いろんなこと・ものを捨てなくちゃならない。だからこそ、男はなかなか結婚の覚悟を決められない。いや、むしろ、結婚して社会に縛られるからこそ、二人は簡単には別れなくなる(別れられなくなる、というよりもむしろ)。そんな複雑でシンプルなものが、結婚なんじゃないでしょうか。そして、結局は何を重視するかの問題で。少なくとも、学生より社会人のほうが「覚悟」を決めやすい、というのは事実のようです。 #長文ごめんなさい。
 


Posted by gen at January 28, 2004 01:00 PM | TrackBack(0)
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