昨日はスペインで生じたテロ事件を日本の危機という観点からのみ扱いましたが、今日は思い切って、自分の「テロ」というものに対する価値観のスケッチを描いてみます。自分の「テロ」観はこれまであえて伏せてきました。それは、ひとえに自分の言葉がリアリティを持ち得ないと考えてきたから。つまり、すぐそこにある身近なものとしてテロを感じることの無い日本人である自分は、どうしても「対岸の火事」的に「テロ」を考えるしかない。発する言葉に、肉体的リアリティが、圧倒的に無い。だから、沈黙してきた。この後ろめたさの中であえて語ります。
人間ないし生物は基本的に争うものです。おのれの生存をかけて、戦う存在である。なぜなら、自然界は決して「平等」ではなく、弱肉強食の世界であるから。食われる恐怖に対抗するには、戦うしかない。抵抗しなければ、殺される。「万人の万人に対する闘争」が世界の真実の姿だとホッブスは語りましたが、この考え方に同意します。しかし、一人(一個体)で戦うよりは、集団を形成したほうが有利です。強くなる。だから、集団をどんどん拡大させてきた。人類が誕生した頃、ヒトという種は結束し、外的環境と戦ってきた。ヒトが増えてくると、今度はヒト同士が小集団を形成し、他の小集団と抗争した。同じような構造がその規模を増し、国家が誕生し、主権をめぐり争うようになった。
また、集団の内部では、「殺し合いはやめよう」という契約を結ぶようになった。そればかりか、守りあうようにさえなった。社会福祉なんてものも生まれてきた。それでも、基本的には「万人の万人に対する闘争」が真実の姿です。ひとたび集団にとっての外敵が存在しなくなると、集団の内部は分裂し争い始める。だからこそ、帝国は、歴史的に必ず滅びる宿命にあった。あるいは、アメリカは常に「外敵」を作り出さねばならない。敵を捏造しなければ、空中分解してしまう。早い話、エイリアンが侵略してきたら「テロ」行為は収束するでしょう。人類内部で争っている場合ではなくなる。しかしこのような形での解決は望めそうにないし、望みたくもない。
「戦争」は、敵が見える集団vs集団の争いであったが、「テロ」は、敵集団が見えない。だから「テロ」を実行する者は卑劣だという意見があります。「テロ」が卑劣だという部分には同意しますが、留保をつけたい。集団と集団が目に見える形で宣言して争うには、ある程度お互いが対等でなければならない。都立高校の生徒がアメリカに宣戦布告することはできないわけです。力関係が圧倒的に非対称だから。つまり、圧倒的に弱い集団が暴力的に抑圧されていて、それでも自らの生存をかけて抵抗しようとする場合、テロ以外に手段が無いともいえるわけです。言葉と対話による解決を目指すべき?いやいや、言葉を発することができないほど抑圧されていて、それでも命を懸けて自己主張するには、相手集団の弱点を突くしかない。相手集団の弱点とはつまり、一般市民のことです。「殺される」という直接的肉体的な恐怖は怒りを生み、怒りは「テロ」に結びつく。
「テロ」を考えるとき、いつもパレスチナとイスラエルに立ち返ります。根源的な「テロ」構造の縮図が、そこにはある。軍事力政治力経済力の圧倒的な非対称性。日夜、イスラエル軍に監視、殺害されるパレスチナ人。非対称であるため、戦争という形で、イスラエルの暴力に対抗することは不可能です。自分が殺される恐怖、肉親が殺された怒りを胸に、女性や小さな子供までもが、爆弾を抱え、イスラエルの首都エルサレムを目指す。そして一般市民を「テロ」に巻き込む。つまり、イスラエルの公的権力は、抵抗力のないパレスチナを<暴力>で押さえ込もうとする。一方、宣戦布告すらできないパレスチナは、自らの生存をかけて、イスラエルの弱点=一般市民に「テロ」という形で<暴力>を行使する。そして<暴力>は循環し、憎しみは日々激しくなってゆく。
問題は明らかでしょう。この循環を断ち切るには、圧倒的に非対称的な世界の構造を変えてゆく他ない。宣戦布告、いや言論による抵抗すらできないような集団を、減らしていくしかない。あるいはそのような集団の生活環境を改善するような策を、真剣に考えねばならない。世界のバランスを取り戻す方向へ舵をきるしかない。「南北問題」という言葉がありますが、現在の世界は、強引に単純化して言えば、圧倒的に強い西側諸国(特徴的なのはアメリカ)vs圧倒的に弱いその他という構造が露骨に成立している。この構造が続く限り、「テロ」は無くならないだろうし、今後ますます増加し世界に色濃く影を落とすはずです。文明の衝突やイスラム原理主義が問題なのではない。抑圧された民衆の生存闘争の最終手段として、「テロ」は定着していくでしょう。もうひとつ付け加えれば、そのような抑圧された集団に「言葉を持たせる」ということ、すなわち発言の機会を与え、その発言に正当に耳を傾け、「テロ」という暴力以外にも自己主張する方向性を与えることも重要でしょう。すべての集団が平等になることなどありえないのだから。
富める西側諸国の一員である日本人として、自分の生活も「テロ」を生み出す一因になっていると、強く実感します。世界の非対称性などまったく気にせず酒を飲む、贅沢三昧の日々。そのような暮らし方の是非は置いておいて、少なくともいえるのは、そのようなある種の罪の意識無しに「テロ」を批判し「平和」を求めるのは、欺瞞に他ならないということ。ましてや、自分も世界のテロを生み出す土壌を作っているという意識なしに、ただ単にアメリカを批判しいい気になるのは、愚鈍の極みです。そこで、俺は自分に問いかけてみる。「今の裕福な生活を投げ出して、世界の公正を求め、テロの無い平和な世界を求める覚悟は、おまえにあるのか?」と。正直な答えは、「No」。この問題はまたの機会に書きます。
最後に。テロで200人近い死者を出したスペインでは、国民が大規模なデモを行っているようです。おそらく、いてもたってもいられなくなったのでしょう。明日東京でテロが起き死者が出たら、俺も怒りの声をあげると思います。おそらく、テロ組織に対する怒りが一番強い。それは「北朝鮮死ねよ」という気持ちに似ているだろうけれども、自らの命を直接的におびやかす暴力に対して、激しい憎しみを感じるでしょう。9.11後のアメリカ人も同様の気持ちを持ったはずです。今も持っているはずです。では、こうして生まれた圧倒的な怒り憎しみは、どうすればよいのか?暴力は暴力しか生まない、「目には目を、歯には歯を」を徹底させてゆくと皆盲目で歯の無い人間になってしまうと言われても、それでも、やり場の無いこの気持ちはどうしたらよいのか?――「テロ」を語ることなど、そもそも不可能なことなのだろうか。
おいおい弱肉強食…。
ものごとを「争い」というフィルターを通して解釈したがるのが男、という指摘があります。
http://homepage1.nifty.com/NewSphere/EP/b/sci_gender.html
に挙げてある論や
シェパード「ヴェールをとる科学」
タネン「わかりあえない理由」
ギリガン「もうひとつの声」
など見ておくといいかもしれません。
貴重なご指摘本当にありがとうございます。
「弱肉強食」という非科学的通説への、ジェンダー的な視座からの告発でしょうか。
列挙された文献に当たってみたいと思います。
学問的に読まれた場合、おそらく激しい違和感を抱かれたことと思います。
たしかに自分はBlogのパーソナルな日記的側面に甘えて文章を書いている面があるので、なまじ他の部分で学問めいた概念を用いるなら、少なくとも独断的想像の箇所には注記くらいは付すべきだったかもしれませんね。たとえ独断のメモだとしても。
科学性への配慮を、Blogでも再検討してみます。
Posted by: Gen at March 15, 2004 11:43 PM
***→