EP end-pointのAmasakiさんに、一昨日の「テロ絶滅はエイリアンに頼るしかない?」の中で用いた「弱肉強食」という俗説は科学的に妥当性が無いと指摘されました(EP end-pointとnew sphere!は進化と文化を考える上で極めて有意義なサイトで、かなりオススメ)。おそらく俺が血液型性格判断によって何かを論じられたら感じるの同じような意味で、違和感を覚えられたんだと思います。私日記に少々学問的フレーバーを加えたこのBlogの在り方も色々と考え直してしまいます。モラルとして。
ちなみに、「弱肉強食」という単語は、イメージとして用いました。つまり、結局生き残る者は生き残るし滅びる者は滅びる、という意味で。少々遠回りだけれど例をひとつ。「地球に優しい」なんて言葉があります。が、これも欺瞞に満ちた言葉で、正しくは「人間に優しい」と置き換えるのが妥当でしょう。環境を破壊しつくし自らが滅びることを恐れているからこそ、「環境」問題なんてものが生まれてくる。人間に害を及ぼさない程度なら、今までいくらでも環境を破壊し尽くしてきた。また、たとえ人間が地球環境を極限まで破壊し現在生ける生物が死滅したとしても、何十万年という「地球的」スパンで考えれば、そこにはまたなにかが生まれるはずです。恐竜が絶滅したように人類が滅びても、宇宙的に考えればどうでもいい話です。環境保護が問題になるのは、自分たちが長生きしたいからで、あるいは自分たちが美しい自然や動物をいつまでも見ていたいからで、決して「地球のため」「自然のため」なんてことはあり得ないわけです。この自覚を欠いた環境運動は欺瞞に他ならない。このように自然界は生き延びる者が生き延びてゆく、ただそれだけのことさ、そんなイメージで漠然と用いた言葉でした。
「弱肉強食」は誤りだという仮説に乗っかって試しに論を組み立ててみます。人間は基本的に争い合う存在ではないのに、暴力の応酬と「テロ」が際限なく生じるのはなぜか。それはやはり、そのようにさせるシステムが存在しているからで、そのシステムこそが世界の非対称性だと俺は思うわけです。人間は元来争わないとすれば、より、非対称的なシステムが際立ってくる。それでも何よりも自分が感じるのは、「テロは発明されてしまった」ということです。もう後戻りできない。飛行機なしの生活には戻れない。核兵器はもはや手放せない。「テロ」も、もはや生み出されてしまったのです。
ではその上で自分はどのような態度で生きていくか、ということについては、もう少し考えます。みなさんはどうでしょうか。#いつも見てくださっている方々へ。次回更新は18日になります。
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