大きく語るときに必ずや混入するナルシシズム

 「テロ」論への補足、「環境保護」の欺瞞に対するEP end-pointさんの応答への、再応答。わざわざありがとうございます。まず返信が遅れてしまったことをお詫びします。

 理由はどうあれ、実際のリスク解析も何も考慮しないで「地球のため」「自然のため」というキャッチフレーズを掲げる人間はみな欺瞞屋だと受け取られうる見方を出してしまうのは浅慮な気がする。

 そう受け取られたなら自分の文章力の無さですが、無邪気に環境保護を叫ぶのではなく、「結局は人間のため」という自覚を持つべき、という考え方もあることを示したいがための文章でした。とある団体と個人を念頭に置いてはいますが。もちろん、リスク解析し真剣に悩んでおられる方々へのある種の無礼さは認めます。

 欺瞞でも別にかまやしないと思う。「地球のため」だろうが「自然のため」だろうが結果的に時流で「良い」と評価される帰結に至るのであれば「〜のために」が欺瞞かどうかはどうでもいいことに落ちつくのだと思う。

 その考え方は怖いですよ。『結果的に時流で「良い」とされる帰結』自体を問う努力は怠るべきじゃない。そのためには、「〜のために」の部分を吟味することも必要となってくる。絶対的に正しい考え方など無いのですから。あるいは、「環境は保護すべき」という帰結にたどりつくまでのプロセスが多様であるからこそ、ひとつの独善的な環境保護ファシズムに陥ることも防げるわけで。あれこれ考えてうだうだ言いあって、様々な考え方を議論しあうことはとても大事だと、自分は思いますね。

 それと、自分のためではなく”本当に自然のための活動”をしたくても純粋に自然(もしくは他者)のための活動だけを行うのはどだい不可能なんですよ。

 この考え方はすんなりと腑に落ちますが、少なくとも自分の主張との矛盾は全く感じられないのですが。だからこそ、「自然のため」を声高に叫ぶ人々に違和感を覚え、先日の文章を書きました。

 伝達するためには情報に訴求力がなければならない。キャッチーな情報、インパクトのある情報。 訴求力やキャッチーさ、イルカさんカワイイからタマちゃん愛くるしいからそんなもんでもいいんじゃないですか。詭弁。それが効いてしまうのが人間、それでお互い踊り踊らせしているのが「人の間と書いて、人間」。

 これも全くその通りなんですが、どこかで懐疑を叫ぶ必要もまた同時に存在するんじゃないですか?自分だってもちろん種々のことに踊り踊らされている。けれど、他人の踊りに醒めた感情を覚えるときもある。その時くらいは、その醒めた感情を言語化し他者に伝えたいと思う。何が正しく、何が間違っているというわけではなくて。そのような少しずつの「醒め」が色んな所に散らばっていて、お互いがどこかで抑制しあうからこそ、ひとつの独善主義に陥ることを多少は防げる。他人の意見を読む・聞くのが好きなのは、自分の意見が絶対ではないことを了解できるからです。

 失敗することが嫌いですか?間違いとされることを避け、絶対的に安全賢明な人生航路に居たいですか?(改段落)この世の軋轢を嫌うのであれば、これこれで彼らは間違っていて下位であり自分の方が正しく上位である とおのれをくすぐる論理を使っていたらこれいつまでも世の中に軋轢がなくならないわけで。(改段落)自分はこれこれが間違ってかもしれないがいたしかたない という自戒を優先すべし。相手のイイコブリッコを非難する前に自分のイイコぶろうとする姿勢を自戒すべし。さもなければ自分はイイコであるという自負を捨てるべし。

 おそらく「自分はイイコである」と私が考えているなんて思った読者は少ないと思いますが。テロの話にせよ、結局は自分が可愛いということは途方も無く自覚しています(もちろん自覚しているから自分は偉いだとか安全なところにいるとは、毛頭考えていません)。ただ、先ほど述べた理由により、「俺(私)はこう思う」というところを言語化することがそれほど無意味でナルシスティックなだけの行為だとも思えないので、書き続けています。なるほどそういう考え方もあるのか、という納得の連続連鎖がBlogないし語ることの醍醐味じゃないでしょうか。その延長線上に倫理も成立し得る気がします。

 ややこしいことはもうたくさん、ただ幸せな人生を送りたいだけなのだと考える衆生、ハッピーピッグ。人生を全うしようとする衆生、ハッピーピッグはハッピーピッグのままでもかまわないだろう。  ただし、進化心理学などハッピーピッグを超えて調停者ぶろうとする人間は、衆生の欲望がまきおこす諍いの調停を考えようとする人間は、冷徹におのれのハッピーピッグな部分(自己ナルシシズム、自己保身欲)を自戒もしくは止揚するという選択肢くらい気がついておいてくれよとかと思う。

 これは何遍聞いても聞き足らない台詞ですね、手のひらに刻んでおきたいくらいの。だからこそ書き続けたり読書あるいは語り合っているんですが。調停者たらんとしより公平に考えようとしても、結局は自分のため、換言すれば自己ナルシシズムに戻ってきてしまうことは痛感します。だからといって、そこで立ち止まりたくはない

 自分は、Blogなどに書くときはAmasakiさんの言葉を用いれば「キャッチー」さ、すなわちアジテーション性を求めて挑発的に書く癖があるので、そこが気に障ったのかもしれないですが、「臨床路線の人がこれ言ってたらかなりやだなぁ、と思ったので。」という感想はさすがにもう少し言語化してもらわないとコメントのしようが無いです。その記述を読むと、Amasakiさんも同じ罠に陥っていやしませんか?と思ってしまうのですが。とはいえ、とにかく不快な思いをさせたなら、申し訳ないです。


Posted by gen at March 23, 2004 04:14 AM | TrackBack(0)
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