感情の進化論2――感情無しに意味は存在しない

 Imagine. 想像してみて欲しい。感情無き世界を。あなたは生きるだろうか。死ぬだろうか。指さすだろうか。空を仰ぎ見るだろうか。何かに判断を下すだろうか。否、微動だにしないだろう。思考は停止するだろう。そこは「〜したいと欲する」ことが一切無き地平。点滴をつながれているならば、アメーバやロボットのように生きながらえるだろう。その時あなたはもしかしたら認知科学者に諸手を挙げて迎え入れられるのかもしれない。なぜならあなたは、純粋なコンピュータ的自動装置と化したのだから。

 快・不快の感情は人間を動かす根本的なエネルギー源である。感情機構は、出来事という外的事象や空腹といった内的事象、つまり燃料を動力に変えるモーターだ。あなたが「人間」であるのは、感情を忍ばせているからなのだ。感情は意味の世界を創造する「神」なのかもしれない。

 まず前回綴った感情の進化論1――世界は幻想であるのポイントを勝手におさらい。意識(感情)とは、生物的に意味のある物理的(および社会的)世界の性質を増幅するフィルターである。すなわち、進化的な生存・繁殖への圧力が、環境のある要素が機能的に有効であるときには常に区別を強化し、あまり重要でないときにはそれを無視するように、心の性質を作り上げてきたのだ。たとえば超音波はわたしたちにとって進化的にあまり意味を持たなかった。だから、それは意識されることも「痛い」といった感情を引き起こすこともない。

 それはさておき、今日の話は「意味」や「価値」の起源を求める小旅行です。

 この世の中は「意味」に充ち満ちているといわれる。わたしたちは意味の世界の中で生きている。では意味とは何か。お堅い広辞苑の定義を借用すれば、「物事が他との連関において持つ価値や重要さ」である。そう。あるものはそれ単独では意味を持たない。子がいるから親があり、男がいるから女がいる。本番があるから前戯があり、シティホテルがあるからラブホがある。「他との連関において」意味は生じる。では連関の網を漁師のようにたぐり寄せていくと、どこに行き当たるのか。意味の起源はどこにあるのだろうか。わたしたちはなぜ「意味」を獲得できたのだろうか。

 まずコンピュータを想像して欲しい。憎めないASIMO君でも地球シミュレータでもなんでも良い。多くの認知科学者の見方では、心は外界のシンボル表象の集まりであり、それらは計算アルゴリズム(指示・規則の束)で操作できるという。これはまさにコンピュータだ。外界のシンボル表象(0と1)を、認知・計算アルゴリズム(アプリケーション)によって操作できるというのだ。だから心はこれまで盛んにコンピュータのアナロジーで語られてきた。

 おそらく心はコンピュータのような構造をある程度は持っているのだろう。というよりも、ヒトの心的過程はその性質においてアルゴリズム(指示・規則の束)なのだろう。だが、コンピュータ的なアルゴリズムは手続きを描写しているのであって、手続きの内容(=意味)を描写しているのではない。世界全部をシミュレートできるコンピューターは、世界が何であるのかを全く認識していない。人を効率よく葬り去るようプログラムされたコンピュータは、人を殺すことが何であるか(=意味)をわかっていない。手続きだけは了解しており、効率よく処理はするだろうが。ここであなたは彼を思い出したに違いない――そう、アイヒマンである。感情を欠く人間の帰結がそこにある。彼自身は手続きをこなしただけだ。そして彼の行為を裁く(=彼の行為に意味を与える)のはわたしたちである。

 感情は、評価する。評価するとは、ある対象に意味をもたらすことである。あらゆる理性的判断の根底には、感情がある。感情がなければ、「判断」という行為が不可能になる。そして何事にも意味は存在しなくなる。喜怒哀楽、さまざまな感情があるが、すべては快/不快のバロメータで統一させることが出来る。わたしたちは快/不快によってあるモノ・コトを評価する。だから「意味」が生まれる。理性的判断の根底には、感情がクフ王のように横たわっている。感情と理性は対立するものではない

 繰り返すが、感情がなければ、生きている生物の内と外で起きている物理化学的出来事は、生物体に対して何の意味もない。それらは、ただ存在するだけだ。この世に愛を与え沈黙で埋め尽くされた物理的法則の世界に言葉を与え「人間の世界」を産み出したのは、感情なのである。もしかしたら、感情は意味に満ちた世界の創造主――神なのかもしれない。


Posted by gen at January 18, 2005 02:13 AM | TrackBack(0)
Comments

 ***→ へぇ〜 : [記事別Ranking]


はじめまして。。。
moriさんのとこから、たどってきました。
いや、同じことを考えておられる方がおられて、ちょっと、ホッとしてます。
はっきりいって、人工「知」能ってぐらいだから、「情」を切って捨てるというのが前提条件、というか、そうしないとコンピュータ上に表現不可能だと思ってます。
逆にいえば、もしそこに「情」が生まれたら、「人工知能」とは呼ばずに「新種の生命体」に変化したとみなすべきなんでしょう。。。

Posted by: きすぎじねん at January 22, 2005 07:58 PM

きすぎじねんさん、はじめまして。
コメントありがとうございます。

>逆にいえば、もしそこに「情」が生まれたら、「人工知能」とは呼ばずに「新種の生命体」に変化したとみなすべきなんでしょう。。。

もしコンピュータに人間の統御できる範囲を超えて「情」が芽生えたならば、それは一体どのように解釈すれば良いのか難しいですよね。人間が生み出したといえるのだろうか。進化という従来のプロセスに則っていないものを(クローン人間もそうですが)どう考えるのかという問題。

とにかく、情が人間の根本的要素であることだけは間違いないと思います。

Posted by: Gen at January 24, 2005 04:02 AM

Genさん、はじめまして。mori夫と言います。(トラックバックありがとうございました。)

感情の進化論1、2、3を熟読させていただきました。非常に共感する部分が多かったです。

●<感情は、評価する。評価するとは、ある対象に意味をもたらすことである。あらゆる理性的判断の根底には、感情がある。感情がなければ、「判断」という行為が不可能になる。そして何事にも意味は存在しなくなる。喜怒哀楽、さまざまな感情があるが、すべては快/不快のバロメータで統一させることが出来る。わたしたちは快/不快によってあるモノ・コトを評価する。だから「意味」が生まれる。理性的判断の根底には、感情がクフ王のように横たわっている。感情と理性は対立するものではない。>

このあたり、完全に同感です。西垣通さんも「基礎情報学」のなかで、ほぼ同じことを言っておられます。(と私は解釈しています。)「情報とは意味のことであり、それは生物の出現とともに発生した」と。私はこれを「日曜思想家の館」に「知の森」で、延々と語ってきたのですが、賛同してくれる人がほとんどいません。(笑)

私も、感情の基底にあるものは「快/不快を識別するもの」であり、それはすべての生物が共通して持つものだろうと思っています。でもこの「快/不快を識別するもの」の正体が謎です。科学者の多くは、物質性質や化学的システムによって説明のつくものだと考えているようです。

でも私が思うに、この「快/不快を識別するもの」とは、まさに「命」のことです。そして「命」は物質性質や化学的システムには還元できない確かな実在です。命は命であり、何らかの「しくみ」のことではない。

●<エンジンの性能はどの部品にも還元できない。ところがひとたび部品が組み合わせられると、「部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、部分が組織化することによって発生」してしまうのだ。>

これはちょっと例えが違うのではないかという思います。(反論ぽくて、すみません。)エンジンの性能は、部品の材質、形状、構造及びエンジンの設計図によって実現されるものの総体です。いわば「プログラミングによって必然的に形成された機能成果」です。

しかし私の認識では(Genさんもたぶん同じ認識と思いますが)「創発」とは、「全体としての動きが、細部の性質からは予測できないかたちで現れ、その動きが細部の構造を逆に再創生させていく」ことを言います。人間の脳の動き(すなわち心)がまさにこれで、人間の精神の自由を証明する、ひとつの基盤材料になるのではないかと考えています。そして「命」も、同じように「創発」であるところの実在です。単なる化学現象ではない。(私も素人なので、完全な自信はありませんが。)

私は命と心の実在性(他の何にも還元できない。合理的システムではない。合理的システムならロボットと同じ)という考えに徹底的にこだわっています。

「人間とコンピューターを分けるもの」についても全く同感です。私も同じようなことを、以前書きました。もしお暇がありましたら、お読みいただければうれしいです。
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2004/09/post_29.html

私も、理性、感情、本能、そして命、心といった問題を、延々考えてきました。これからもちょくちょく寄らせていただこうと思います。よろしくお願いします。

Posted by: mori夫 at January 29, 2005 04:10 AM

mori夫さん、レスありがとうございます。
お返事が遅くなってしまい、すみません。

>西垣通さんも「基礎情報学」のなかで、ほぼ同じことを言っておられます。(と私は解釈しています。)
>「情報とは意味のことであり、それは生物の出現とともに発生した」と。
>私はこれを「日曜思想家の館」に「知の森」で、延々と語ってきたのですが、賛同してくれる人がほとんどいません。(笑)

これは「情報」の定義の問題ではないですか?人間が「情報」と一般的に捉えるもの(たとえば色など)に限っていえば、間違いなく人間の出現とともに発生したのだと思います。これを疑える人がいることが驚きです。ただし、たとえば水素のようなものは、それ自体として存在すると想定するのが(方法論的には)良いのかもしれません。

>でもこの「快/不快を識別するもの」の正体が謎です。
>科学者の多くは、物質性質や化学的システムによって説明のつくものだと考えているようです。
>でも私が思うに、この「快/不快を識別するもの」とは、まさに「命」のことです。
>そして「命」は物質性質や化学的システムには還元できない確かな実在です。命は命であり、何らかの「しくみ」のことではない。

「快/不快を識別するもの」が存在するためには、物質的基盤が必要でしょう。その部位は、各感覚器からの入力が集まる脳としか考えられません。人間の情報処理は大部分が暗黙知的に行われています。この次元は(理論的には)機械で代用させることができるでしょう。意識にのぼるのは一部分にしかすぎない。しかしその一部分が、わたしが生きている当の意識そのものとしてリアルに経験されます。物質的基盤から意識そのものが生まれるという現象は、どう科学的に説明したらよいのか、皆目見当がつきません。大方の認知科学者もそうでしょう。だから「クオリア」などという言葉が生まれてきます。果たして「創発」という概念で済ませて良いものなのか。

mori夫さんがこだわる「命」は、この意識の領域を指すのでしょうか。あるいはより包括的に考えてらっしゃるのでしょうか。「命」という語も、たとえば「文化」のように、あくまでひとつの概念です。その語の内実を定義することからはじまると思います。

mori夫さんのサイトをじっくり読ませて頂きますね。

Posted by: Gen at February 9, 2005 04:32 AM
Post a comment









Remember personal info?








Trackback