感情の進化論3――感情は学習の教師である

 前回書いたように、感情が理性の根底に横たわっている。感情はこの世に意味を与え給う神である。では、生まれつき授けられた感情によって、人間は盲目的・自動的に導かれるのだろうか?ちょっと待った。「学習」と「推論」という極めて重要な問題がまだ残されている。それは「遺伝」の反対側に位置する、「環境」の問題でもある。いよいよ感情、学習、推論のしっぽりとした関係にガサ入れしていきます。

 その前に一休憩。グラサンかけてないタモさんの画像はなぜか申し訳ない気持ちを喚起し、タモリ発言200選で時間を素敵に食い潰し、某英単語の意味がここ1ヶ月で変わったという記事に鼻を鳴らし、およそ百年前に撮影された写真に涙を流し、プーチンに背筋を凍らし(右上の写真をclick)、さてと行きますか。

 人の思考を規定するものについて。3つに分類できる。第一にa.感情、第二にb.学習、第三にc.推論である。三重円を想像してほしい。一番外側がa.感情、真ん中がb.学習、一番内側がc.推論だ。入れ子型になっていて、外側は内側を規定する。
 
 具体例で考えてみよう。目の前に得体の知れないキノコが生えているとする。この時どのような行動を取るか迷うだろう。迷うということは、c.推論を行い自分が持っている様々な仮説(行動レパートリー)を探索するということだ。もちろん、時には、今まで自分が持っていなかった仮説(行動レパートリー)が思い浮かぶこともあるだろう。これが人間の持つ「創造性」である。様々なアイデアが浮かぶはずだ。掴もうか。踏みつぶそうか。もぎとろうか。食べようか。無視しようか。その際に空腹感を感じているならば、感情が選ばれるべき行動レパートリーの範囲を狭め(つまり感情の質・量によって推論される選択肢の範囲が限定され)、「食べる」という選択肢を中心として思考がめぐらされるだろう。そして実際に「食べる」という選択肢を選び、結果的にお腹をこわしたとしよう。お腹をこわすとは、痛みというa.感情を感じることだ。痛みは不快な(負の)感情だ。すると、見ず知らずのキノコを食べるという行動レパートリーは、負の感情に評価されて、負の価値を帯びることになる。そして、「見ず知らずのキノコは食べてはダメだ」という新たな行動レパートリーが身に刻まれる。悲惨な腹痛の記憶と共に。こうしてb.学習が成立したわけだ。

 つまり、進化的に形成された感情は、学習の教師役なのである。感情がなければ、人は何も学習しないだろう。感情が学習させるのは、1.正の快楽状態が増大すること、2.負の状態が減少すること、に関連した行動レパートリーだけである。1と2、どちらにも関係ないことは、全く学習されないし記憶もされない。無関係なモノ・コトを学習するコスト的な余裕など人間にはないからだ。3ヶ月前に足を骨折したときの状況は鮮明に覚えていても、その前日の同時間帯に何をしていたかは覚えていまい。

 また、すべての学習された行動(行動のレパートリー)は、その行動がどのような快楽状態を引き起こすのかという予測を伴っている(ex.熱いやかんを触る→負の快楽:だから触らない。セックス→快感:だからしたい)。行動は、その行動がもたらす快楽状態の帰結と共に記憶される。キノコの例のように。記憶と感情が結びついて、はじめて「意味」のある記憶ができあがる。

 感情は進化的に形成されてきたもので、遺伝する。対照的に、学習されたこと(行動のレパートリー)は、遺伝しない。感情は不変の憲法のようなものであり、学習は個々の法律や判例を生み出す行為である。推論とは、それら個々の法律や判例を参考にし、どのような行動を実際に取るのか(どのような判決を下すのか)を決定することである。人が生きていく上で遭遇する環境は、刻々と変化し、かつ多様である。感情だけでは対応できない。その環境に細やかに適応するには、感情を教師として学習された、さまざまな行動レパートリーが必要なのだ。さらに、実際に具体的な行動をとるには、学習された行動レパートリーから最も状況にふさわしいものをその場で推論し選択・微調整(解釈・実行)せねばならない。その具体的な行動によってもたらされた結果が、感情から正のフィードバックを受けるならば、その行動は逆にまた学習されて、次に似た状況に遭遇した際に参照されるだろう。だが、人間が最終的に立ち戻るのは、いつでも感情なのである。個々の法律が最終的には憲法に立ち戻るように。

 わたしたちは「本能による行動」と「理性による行動」をことさら区別したがる。だが、もはや単純にそれらを区別できないことはわかって頂けるだろう。事態ははるかに複雑なのだ。わたしたちが持っている行動のレパートリーは、感情(本能)という教師に教わってはじめて学習されえたものである。また、その場その場の推論によって決定(実行)される具体的な行動は、快楽状態の予測を伴った行動レパートリーに大きく制約される。では、「理性」とは一体何を指すのであろうか。感情を教師として学習された、快楽をもたらすと予測される行動レパートリーとは真逆の行動を(推論によって)取ることが、理性的なのだろうか。つまり快楽状態を回避することが理性的なのだろうか。教師に背くことが理性的であり善なのだろうか。それで生きてゆけるのだろうか。それは稚拙な定義ではないのか。理性と本能を二分することの功罪も含めて、よく考えてみて欲しい。


Posted by gen at January 21, 2005 06:28 AM | TrackBack(0)
Comments

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こんばんは、お久しぶりですー。Genさんいつぞやかはすみませんでした(><;)blog再開されたのですね。頑張ってください☆☆☆
それとすみません、心理のことでちょっと個人的に相談したいことがあるのですが、もしよかったら相談にのってくれると嬉しいです。
ではでは。お目汚しすみませんでした(汗

Posted by: 沙誉 at January 24, 2005 03:37 AM

沙誉さん、コメントありがとうございます。
相談に乗れる範囲ならば、応じることができるかもしれません。一度メールをください。

Posted by: Gen at January 24, 2005 03:58 AM

ありがとう。
メールしました。

Posted by: 沙誉 at January 25, 2005 03:35 AM

こんにちわ。
Genさんが感情論を語る意義「面白い」ってのは同感で、興味深く読ませていただきました。

感情→学習→推論の入れ子型3重円について気になることがあったもので書かせていただきます。

この一連の流れで、「遺伝的に備わった初期感情から始まり、外側が内側を規定する」というのは納得できたんですけど、逆に「内側が外側を規定する」って事はありませんか?

例えば、「道行く人と無理やりセックスする」という命題について。遺伝的に備わった初期感情からすれば、「セックスしたい」のであって、学習→推論としていくうちに「道行く人と無理やりセックスはしない」となっていきますよね?でも、私達の現在の常識的な感覚では「道行く人と無理やりセックスはしたくない」んだと思います。

この例で言うと、他者との関係という環境(社会)において初めて生ずる感情があるのでは?と思いました。つまり、学習(もしくは推論)→感情という流れが存在するのであって、外側が内側を規定するという定義だけでは不十分なのではないかと。

もし内側が外側を規定することがあるとして、それによって生じる感情を「2次的感情」とするならば、感情・学習・推論すべてが「多次的に形成されていく」ことになります。読んでいて、「感情 vs 理性」の構図は、「遺伝的に備わった初期感情 vs 多次的に形成した感情・学習・推論」なのかなーと思ったのですがいかがなものでしょうか?

長くなってしまった上に、例が下品で申し訳ないです。負担になってしまってもイヤなので、サクッと簡単にお答えいただけたら幸いです。


ついでにちょっとした疑問なんですが、こういう話はオリジナルなんですかね?それとも今まで得た知識の総括なんでしょうか?

Posted by: cv at January 25, 2005 08:05 AM

タモさんのページからみうらじゅん〜リリーと遍歴。笑い転げて肝心の感情論まで道草してました。
感情、センティメント、この2語の間にもちょっとしたずれがあると思うのですが、少なくとも私の中では「感情」という言葉を使うときにちょっと警戒します。というのは昔、若かりし詩人、萩原朔太郎と室生犀星が「あまり感情感情言うな」と文壇から怒られたのに反発し同人誌『感情』を出した、といういきさつを読んだことがあるからです。以来、私なりに『感情』とは何なのかそれが海のようなものならばもうすこし深いところまでアンコウのように降りていってみようと・・
表面的には知覚されるものに対する反応の推移。どうして私は反応するのか、つたない経験のなかでの手探りのあて推量ですが・・・どうやら私は「自分を残したがっているらしい」前にgenさんに頂いたコメントのなかにもありましたよね、と同時に「消したがってもいるらしい」無意識のうちに・・。破滅への衝動も確かに存在するわけです。この生と死への相反する衝動からぽろっとこぼれたホウセンカのタネみたいな・・それが感情と私が呼んでいるものかと思います。
genさんにとっての感情のディフィニションを教えていただけるとより浸透圧高く読ませていただけると思いました。

Posted by: at January 25, 2005 11:13 AM

cvさん、コメントありがとうございます。テスト期間ということもあり、10日以上も返信が遅れてしまい、どうもすみませんでした。

>感情→学習→推論の入れ子型3重円について気になることがあったもので書かせていただきます。
>この一連の流れで、「遺伝的に備わった初期感情から始まり、外側が内側を規定する」というのは納得できたんですけど、逆に「内側が外側を規定する」って事はありませんか?

もちろんあります。学習された概念にしたがって人間は世界を認識するので。

>例えば、「道行く人と無理やりセックスする」という命題について。
>遺伝的に備わった初期感情からすれば、「セックスしたい」のであって、学習→推論としていくうちに「道行く人と無理やりセックスはしない」となっていきますよね?
>でも、私達の現在の常識的な感覚では「道行く人と無理やりセックスはしたくない」んだと思います。

感情的には「だれとでもセックスしたくない」というのがデフォルトだと思います。遺伝的には「生存・繁殖上最も有利になるように」感情機構がセットされています。セックスはたしかに快感をもたらしますが、無理矢理されても気持ち良くない(=感情)ことからわかるように、相手を選ぶようにできています。
参考:http://d.hatena.ne.jp/Gen/20041223#p5

>この例で言うと、他者との関係という環境(社会)において初めて生ずる感情があるのでは?と思いました。
>つまり、学習(もしくは推論)→感情という流れが存在するのであって、外側が内側を規定するという定義だけでは不十分なのではないかと。

それは「感情」と呼ぶべきものですか?むしろ学習によって、ある思考(行動パターン)と感情が結びついたものだと考えられませんか?あらたな「感情が生まれる」という必然性は無いと思うのですが。

>もし内側が外側を規定することがあるとして、それによって生じる感情を「2次的感情」とするならば、感情・学習・推論すべてが「多次的に形成されていく」ことになります。
>読んでいて、「感情 vs 理性」の構図は、「遺伝的に備わった初期感情 vs 多次的に形成した感情・学習・推論」なのかなーと思ったのですがいかがなものでしょうか?

まず、感情がなければ、この世の中に「意味」は存在しません。感情と出来事が結びついて、意味のある概念・推論パターン・行動パターンが生じてくる。それらを論理的操作することは可能です。これを理性と呼ぶならば、「感情に支えられた形で理性がある」というイメージだとわたしは考えています。cvさんのおっしゃる「多次的に形成した感情・学習・推論」というのも、このイメージと近似しているのではないかと思います。ただし、厳密に論じるならば、まず「理性」という語を定義せねばなりません。また時間を作って行ってみたいと思います。

このレスがcvさんの意図するところを取り違えてないと良いのですが‥

>ついでにちょっとした疑問なんですが、こういう話はオリジナルなんですかね?
>それとも今まで得た知識の総括なんでしょうか?

オリジナルの知識も所々加えていますが、基本的に今回はhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/482224203X/
をベースにして書いています。個人的に非常に納得がいったので。ただし、この本に書かれていることもあくまで一仮説です。但し書きを書くのをつい忘れてしまいましたが。社会心理学者には猛否定される考えだとも思います。進化心理学自体、かなりcontroversialです。感情と進化に関する文献を現在色々とあたっています。もう少し広い(フェアな)見方を提供したいと思っています。

Posted by: Gen at February 9, 2005 03:03 AM

葵さん、コメントありがとうございます。
遅くなってしまいすみません。

>破滅への衝動も確かに存在するわけです。この生と死への相反する衝動からぽろっとこぼれたホウセンカのタネみたいな・・それが感情と私が呼んでいるものかと思います。
>genさんにとっての感情のディフィニションを教えていただけるとより浸透圧高く読ませていただけると思いました。

たしかに自分自身も破滅の衝動を抱えていると感じるのですが、進化的に考える場合は、「破滅への衝動」を理論化することはできません。なぜなら、そのような衝動を持った個体は現在残存していないはずなので。

また、「感情」もあえて科学的に狭く定義する必要があると思います。いったんドライに考えた後に、そこから想像力と思索を練り込むのが良いのではないかと。感情の定義については、次回「感情の進化論」を書くさいに、はっきりさせてみようと思います。

Posted by: Gen at February 9, 2005 03:18 AM

どうもこんにちわ。
返信ありがとうございます。

セックスの例はまずかったですね。勉強不足ですいません。

>それは「感情」と呼ぶべきものですか?むしろ学習によって、ある思考(行動パターン)と感情が結びついたものだと考えられませんか?あらたな「感情が生まれる」という必然性は無いと思うのですが。

そうですね。結局は「感情」の定義の問題だと思います。私のイメージでは「感情」=「分析や計算なしの自動的な応答」というものだったのですが、感情と学習・推論が結びついたものが自動的に応答できるとしたらそれで問題ないと思います。

>「感情に支えられた形で理性がある」というイメージ
>「多次的に形成した感情・学習・推論」というのも、このイメージと近似している

これもそのとおりだと思います。進化の過程で形成された「感情」が、ヒトの一生の範囲で進化(もしくは変化)したものが「理性」なんだと考えています。厳密な定義が必要ですけどね。


このシリーズは終わったと思ったのですが、まだ続くんですね。楽しみです。それまでは元ネタ読んで勉強してみようと思います。お忙しい中どうもでした。

Posted by: cv at February 20, 2005 04:34 AM
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