私たちはニュースをよくみる。新聞を読む。何故だろう。実に不思議だ。ニュースに映し出される現実は、圧倒的に「不幸の手紙」が多い。幸せなニュースを、暗いニュースが凌駕する。地震。爆弾。テロ。殺人事件。死体。泣き声。悲痛な顔。叫び。
「ニュースは子供に見せないのよ。だって教育上悪いじゃない」という親がいるという。私たちの幸せな食卓に、あるいは心地よい朝の目覚めに、突然割り込む「不幸な手紙」。日常の生活世界、なにげない瞬間に、突然割り込む暴力の知らせ。このふたつの間の、感覚の圧倒的な断絶。あまりに私の夕食と小学校殺傷事件はズレている。イラクもズレている。
なぜ私はあえて「不幸の手紙」を自ら進んで観るのだろうか。世界を知りたいという欲望が強いから?世界を知っておかないと不安になるから?でも考えてみて欲しい。何も社会的「事件」が起きなかった日のニュースのことを。どこかで祭りが行われた。誰々が結婚した。スポーツの話題。あなたは、満たされていないのでは?何か物足りないのでは?つまらない、のでは?
私は「不幸の手紙」を待っている。「不幸の手紙」を求めてテレビをつける。他人の不幸を待ち望んでいる。イラク問題の時に「自己責任が大切だ!」あるいは「3人を非難するなんて信じられない!」という言説に違和感を感じ、それは「生活世界から目をそらして<大きなこと>に酔っているのでは?」と指摘した(参考)のは、このような背景もあると感じたからだ。それは何よりもまず、私の、自分の、マゾ的な卑しい欲望である。私は「不幸の手紙」が無ければ満たされないからだになってしまったのかもしれない。その上で、「不幸」に対して自分が何を出来るかを考えて、今度は逆にサド的欲望を満たしているのかもしれない。どこにゆけば良いのだろう。それでもそのまま歩けというのならば、誇らしげに持てる力をすべて込めながら歩いていってやる。
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