さーいよいよクリスマスですよ。そこで。反響を頂いた「とりあえず究極の恋愛論」シリーズ(part.1〜part.5)の、クリスマス直前講習。ロマンティックさの本質は、「無駄さ」である。進化論の初級レベルの理論を援用&紹介しつつ。
クジャクの羽の話を知っているだろうか?クジャクのオスの羽は美しい、見入る者を魅せる。メスは美しい羽を持っていない。オスはなぜこんな羽を持っているのか。生存上は、明らかに不利だ。目立つということは、敵(捕食者)に見つかりやすいということ。さながらカメレオンのように、背景に同化できる方が有利なはずなのに。
研究によれば、美しい羽は、「求愛行動」において有利だからだそうだ。美しい羽を持つオスは、端的に言えばモテるのだ。目立つ(美しい)羽を持っていても生き延びられるということは、オスの底力を証明する。擬人化した比喩を用いれば、美しい羽を持つオスは、余裕を見せている。美しい羽は、オスが体内に秘めている遺伝子の質の良さ(正確には「突然変異の少なさ」)をあらわす印(宣言)なのである。たくましい子孫を残すために、より力強い遺伝子を求めるメスが、美しい羽を持つオスに惹かれることは、理にかなっている。
「進化」にはふたつの側面がある。「生存」と「繁殖」だ。「生存」とは生き延びることが出来るかどうか、「繁殖」とはより多く子孫を残すことが出来るかどうかである。「繁殖」を成功させるには、当然相手(メス・女性)が必要である。進化論から人間や動物のある形質を説明する際に、「生存」と「繁殖」、どちらからも説明することができる。たとえば、「頭が良い」という形質は、「生存」の観点から見れば、社会的地位が高くなる→有利に生き延びることが出来る。他方、「繁殖」の観点から見れば、より巧みな話ができる・面白い→女性にモテる→子どもを多く産める、ということになる。芸術の才能などの、一見「無駄な」形質を説明するには、どうしても「繁殖」の側面からの説明が必要になる。「人間の芸術を生み出す能力は恋人選びによって進化した」と学術的に真剣な議論がなされていたりもする。
では、メスを惹きつけるためのメッセージ(しるし)は、なぜクジャクの羽のように、あるいは芸術や音楽の才能のように、生存上は全く「無駄な」ものでなくてはならないのか。ここでゲーム理論が絡んでくる。たとえ話だが、もしある自動車会社が「我が社はトラックの生産を重点的に行い、シェアのトップを確保するつもりだ」と宣言したとする。この宣言だけならば、それがハッタリか本気か見抜くことができない。でも、もしその会社がトラックの生産を増産するために何百億もかけて工場を再編するならば、その宣言にはある程度の重みがあると見て良いだろう。その会社は「ハンディキャップ」を負っているからだ。クジャクも、羽が目立つ(=生存上は不利)というハンディキャップを負っている。つまり、ある宣言に信憑性を持たせるには、自らがハンディキャップを負えばよいのだ。
この「無駄なもの(=コスト)」は、興味深いことに、実に恋愛に不可欠な要素なのである。無駄の多さこそが、求愛をロマンチックなものにしているのだ。無駄に満ちた贈り物、無駄に満ちた愛の言葉、無駄に満ちた冒険の数々。非遺伝的な観点からみても、「無駄さ」は恋愛のキーワードである。もっともロマンチックだと思われる愛の行為は、しばしば、その与え手に最も大きな損失を強いるが、受け手にもたらされる物質的な利益は少ない。自然界でも、あからさまな無駄と見えるものがあるときには、たいてい恋人選びが関与している。
先ほどのゲーム理論で考えてみよう。彼(彼女)がコストを払って無駄なことをしてくれればくれるほど、それは、彼(彼女)の本当の(嘘ではない)気持ちをあらわすサインとなる。だからロマンティックさを感じる。馬鹿げている者のストーリーは美しい。指輪を買う?百万本のバラ?クリスマスイブにヘリコプターをチャーターする?それはまさにクジャクの羽なのである。
相手を本当に好きならば、自分にとっての「無駄さ」がロマンティックに感じられるはずだ。「指輪なんていらねーよ、プラズマテレビを買ってくれ」と思った時点で、あなたは相手のことを好きではない。逆に、「プレゼントを贈るなんて金が勿体ねーな。あー無駄だ」と思った時点で、あなたは相手のことを好きではない。それならば、イブに相手を振るという伝説を打ち立ててみよう。送り手と受け手が同時に「無駄さ」をロマンチックだと感じられるとき、そのときにのみ、そこには「恋」が芽生えているのだろう。「無駄さ」は恋の試金石、踏み絵なのである。あるいは、無駄であればあるほど、ロマンスは燃え上がる。
さて、クリスマス。究極の「無駄」を楽しみ、「無駄」にまみれ、「無駄」の中で戯れてみてはどうだろう。無駄の限りを尽くせば尽くすほど、素敵な一日は燃え上がる。一年で唯一の、「無駄の祭典」がやってきた。無駄に踊った者が勝ちだ。踊れない者は、自分にとって無駄ではないような、有意義な一日を!
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より論を発展させた<闘争せよ!ロマンティックな「無駄さ」のために>も是非読んでやってくださいね。
ロマンティックに思える時点で無駄さ加減とは呼べないものに「変容」しているわけで・・
はたからみると無駄なものにどれだけ執着できるかでその情熱を測ることができる、と理解しました
でも、欲しいのが指輪なのにどんなに気持ちをこめて贈られたプレゼントであってもそれがカンピョウだったりしたら無駄、というより当てがはずれる、というか疑念が生じますね。
でも恋焦がれてきた寿司職人が左手の薬指にカンピョウを巻いてくれ、イクラをのっけてくれるなら世界一のプレゼントになるだろうと思います。
向い合う異性、でなくても恋人の期待にどれだけ応えたかでロマンティックが成立することを思うとgen さんの説もご当人次第というような気も・・
>葵さん
遅れてしまいましたが、鋭いコメントをどうもありがとうございました。新たなエントリーにてお返事とかえさせて頂きます。
またツッコんでいただけると幸いです。
Posted by: Gen at January 7, 2005 07:51 AM
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