とりあえず究極の恋愛論Final

 大雑把にいえばとりあえず究極の恋愛論part.1では恋愛に関する個人の心理的側面を、part.2では社会的側面を、part.3では実践的側面を、part.4では哲学的側面を語ってきました。さていよいよ最終章。恋愛論のまとめと、実際の恋愛そのものについて。おそらくこれが恋愛の本質。

5.恋愛論から恋愛は零れ落ちる

 詳しい議論や定義はまったく追ったことがないけれども、おそらく「恋する」とはわたしがあなたに求めること。何を求めるかといえば、part.1で語った a.性的な側面と b. わたしのアイデンティティ、これら二つの側面を。一方、「愛する」とはわたしがあなたに与えること。その二つの側面と、もしかしたら、存在の必然性をも与えること(part.4)。では「恋愛」とは何か?それは、わたしがあなたに求め、あなたがわたしに求めること。そしてお互いがお互いに与えあうこと。だからそれは「恋」でもあり「愛」でもある――「恋愛」

 おそらく恋愛がうまくいくポイントは、お互いが相手に恋する度合いの、バランス。気持ちの釣り合いがとれているかどうか。恋と愛が噛み合っているかどうか。あなたとわたしが求め合う、あなたとわたしが与えあう度合いの均衡がとれると、お互いに「重苦しさ」も「寂しさ」も抱えずに、恋愛の歯車はうまく回り出す。

 また、今までセックスの重要性を繰り返し述べてきた。でも、part.4で述べたように、お互いがお互いに「自分の存在の必然性を求める」という深いレベルで恋し愛しあっていると、おそらくセックスはむしろ孤独を感じるものとなるだろう。なぜならセックスはあまりにも具体的な行為だから。あなたが触れて、はじめてわたしが存在する。でも、セックスが果たしてわたしの存在の必然性を与えてくれる?これだけ肉体が触れあっても、これだけしか相手に近づくことができないのか?

 いよいよここからが書きたかったこと。これを書くために息をきらしながら綴ってきた。それは「わたしの恋愛」と「恋愛論」との埋めがたい距離について。いいかえれば、恋愛論を語ることの無意味さについて。あるいは、つまらなさについて。

 映画を観る。食事をする。お泊まりする。キスをする。甘い雰囲気の中言葉を交わす。ちょっとした駆け引き。喧嘩する。電話する。嫉妬する。泣く。抱き合う。今回はひねくれた形でpart.1からpart.4まで恋愛論を語ってきたけれども、恋愛の要素なんて、実際にはもっと単純にいくつかの言葉で括れてしまうのだ。でも、so what ? それが一体なんだというのだ?それが恋愛の何を語る?わたしがあなたにアイデンティティや存在の必然性を求めることが事実だとしても、実際の恋愛において、それがどれほど大事なことだというのか?恋愛してる人ほど、ここ最近の恋愛論の記事はつまらなかったのではないかと思う。

 21歳の6月14日、桜木町、寝坊して謝りながら遅刻で到着、あいにくの雨に包まれていて、でも夜に酔っぱらいながらしたビリヤードは楽しかった。なんとなくすれ違ってたから、無邪気にはしゃげたことが少し嬉しかったかもしれない。Hしたくて何とか家に連れてこうと頑張ったなー。懐かしい。でも結局1週間後には別れたんだよな。何だったんだろう、あいつは。

 おそらくこの記述は、今まで書いてきた恋愛論よりも自分の恋愛についてよっぽど多くを語っている。でもまだ足りない。言葉をどれだけ増やしても、足りない。あのとき感じたことは、記憶の中でデフォルメされながら、それでもあのとき感じたことのまま。感じたひとつひとつのあれこれや、それを想い出して考えたことや痛んだこと、今の自分に微妙に影を落としてること、これらすべてが恋愛そのもの。

 実はこの「○○論(○○の本質を抽象的に炙り出す作業)」と「○○の具体的な一瞬一瞬の個人的な経験そのもの」との違い/距離は、恋愛に限った話ではない。たとえば「白血病」だと診断されたとする。あなたは「白血病」だ。でもあなたにとっての「白血病」は、医学的な診断の「骨髄中で血液細胞を作っている造血細胞ががん化して、規則正しい分化・成熟過程をとらず無秩序に増殖する病気‥」では語りえない。そこで失ったもの、悩んだもの、苦しんだこと、今でも辛いこと‥これらの毎日の経験一つ一つがあなたにとっての「白血病」だ。これは「理論」と「物語」の違いと名付けてもよいかもしれない。

 わたしたちにとってのすべてはこの個人的な「物語」だ。学術的にいえば「ライフストーリー/ライフヒストリー」と呼ばれる。これがすべてなのだ。わたしたちはライフストーリーにさまざまな(科学的/学問的)「理論」を取り込みながら生きている。たとえばこの恋愛論を読んで「なるほどなー」と思うところがあった人は、この論を自分の恋愛の物語に組み込みながら、また新たに自分のライフストーリーを築いてゆくだろう。あるいは、あるカルト宗教を信仰している人がいるとしよう。彼が非科学的なこと、たとえば「この世の救済者は田中さんだ」と言ったとしよう。でも彼を馬鹿にする権利はない。なぜなら彼にとっては、彼のその「物語」が真実に他ならないのだから。

 科学、そして(学問的)言説、つまり「○○論」は、すべての真実を明らかにすることはできない。たとえ脳のすべてが明らかになったとしても。たとえ私の洞察力がどれほど深くとも。なぜならわたしたちは具体的な自分自身の物語を生きているのだから。したがって私は「究極の恋愛論」とタイトルで銘打っておきながら、実際には「とりあえず」を語ったにすぎないのだ。出来ればあなたの物語に取り込まれるといいなあ、なんて思いながら。

 ここで最後の悪あがきをしてみたい。恋愛にまつわるあなたの物語と、他のことにまつわるあなたの物語に、違いはあるのか?part.4で述べたようにあなたが恋する人に「存在の必然性」を求めるならば、あなたにとって恋愛の物語は非常に重要なものとなるだろう。そうでなくても、part.1で述べたa.、つまり性的なものが絡むから、恋愛の物語はあなたにとって一番大事な物語となりやすいのだろう。生殖を大切にするよう、人間は進化してきたはずだから。あるいはあなたは恋人と「あなただけ/わたしだけ」の関係を結ぶのだから、すなわちお互いに唯一性を与えあうのだから、恋愛の物語があなたにとって一番重要(動揺させられる)ものになっても不思議はないだろう。また、恋愛で実際に行うことは、先ほど列挙したように、それほど数多いものでもなければ新鮮なものでもない。デートはイベントとしては凡庸そのものだ。だからこそ、恋愛においては特に「物語」が圧倒的な重要を帯びるといえる。似たことの繰り返しの中に、いかに「物語」を読み込めるか。「物語」こそが、恋愛を恋愛たらしめる。

 恋愛は語りえない。part.4で述べた「自己言及の不完全性」という意味で、あなたは自分の恋愛について語りえない。また、恋愛は激しい感情的な動揺を伴うため、その経験をうまく言葉に置換することができない。言葉で伝えようとあがいても、何かが必ず零れ落ちる。だがその「語りえなさ」こそが、恋愛を魅力的な領域に押しとどめているのだ。

 それ以上に、恋愛はあなたにとって極めて大切な「物語」となるものだから、ますます他人があなたの恋愛を語ることは不可能になるだろう。あるいは他人の恋愛論がつまらなく感じられるだろう。自分が恋していれば恋しているほど。実をいえば、恋愛について知りたいならば、恋愛論よりも恋愛小説を読んだ方が百倍マシだ。なぜなら、恋愛小説は他者の恋愛の「具体的な物語」だからだ。そこにはたくさんのヒントが詰まっている。具体的な物語こそが恋愛の色彩である。色彩を奪われたモノクロームの抽象は、恋愛について、凡庸なことしか語らない。だからこそ小説で色彩を味わった方が何かを掴むことができる。

 恋愛の本質は、あなたが恋愛で感じることすべての、一瞬一瞬のうちに在る。恋愛の色彩は、たった一度きりの物語の積み重ねに宿る。そこであなたが考えたことが、もちろんうまく言葉にすることはできなくとも、あなたにとっての「究極の恋愛論」にほかならない。自分の納得いくような物語を紡いで、素敵な語り手となってくださいね。


Posted by gen at June 13, 2004 06:19 AM | TrackBack(0)
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